無駄はない。

論理的に、そして感情的に。

僕は、生身の南條さんが大好きだ。

※・R・i・n・g・ツアーのネタバレを含んでいます。dアニメストアでの配信を楽しみにしている人はご注意下さい。


■僕は、生身の南條さんが大好きだ

……言うまでもなく、南條さんの身体が好きという意味ではない。女性に対してそう断言するのは失礼な話かもしれないが、僕は南條さんに女性的な魅力を求めていない。僕はあくまで南條さんの人生観や人間性に惹かれているということをあらかじめ強調しておく。
fripsideのボーカル』でもなく『○○役の南條愛乃』でもない、生身の『南條愛乃』だけを僕は追いかけている。もちろん他の側面を否定するつもりはない。ただ、僕にとって一番興味があり、趣味が合うのは、生身の南條さんだという話だ。

格好つけていいところでも格好つけない、その自然体なところが好きだ。
僕はとても見栄っ張りで、そんな自分が嫌いになることもよくある。だから南條さんのように自然体・等身大でいる(あるいはそうであるように見せる)ことに憧れているし、それができている南條さんを尊敬している。

‟誰かの気持ち代わりに歌うなんて 大きなことはできないけど 寄り添えるような曲になったら” 

南條さんは楽曲のなかでも等身大だ。すべての曲がそうだとは言えないが、想像ではなく実体験から得た気付きを基に楽曲を仕上げている印象が強い。とある夢を追いかけている僕からすると、これはとんでもなく勇気がもらえる。1stフルアルバム『東京1/3650』などは顕著で、夢に向かって努力していた過去の南條さん自身の心の動きが垣間見える。
――本当にやっていけるのかな。不安だな。でも自分を信じて頑張ろう。そう思ってもうまくいかないことがある。理想とは違うな。諦めようかな。ちょっと距離を置いてみよう。でもいつの間にか、そのことを考えている。やっぱり、だいすきだ。自分を信じて明日からまた頑張ろう。不器用な生き方でもいいじゃない。すこしずつかもしれないけど、きっと、成長できてるよ。
南條さん自身の実体験を伴っているからこそ、これらのメッセージには説得力がある。僕自身、経験したことのある気持ちも多く(というかほとんどがそうだ)、どうしたって共感してしまい、それでいて今の南條さんの活躍を見ていると、自分だって!という気持ちにさせてくれるのだ。

ここで少し自分語りをさせてほしい。ミステリ作家になるのが僕の夢だ。その夢を追い掛けようと決意する一助になってくれたのが、他でもない、南條愛乃さんその人だった。
のぞえりラジオガーデンという伝説の番組がある。僕は狂ったようにそのアーカイブを聞き漁っていた時期があったのだが(というか実際狂っていたと思う)、そのなかで出会ったとある回で、リスナーからこんな質問が届いていた。
‟お二人が声優になってよかったと思うことはなんですか?"
これに対し、南條さんはこう答えた。
‟無駄がなくなった"
どういうこと?と相方である楠田さんから疑問の声が上がる。

南條さん曰く、‟(要約)日常のなかで悲しいことやつらいことを経験しても、それも演技に活かせると思えるようになったから、人生に無駄がなくなった。”

まさに目から鱗だった。声優に限らず、表現の道を追求している限り、決して人生に無駄な瞬間は訪れないのだ。それってなんて素晴らしい人生だろうと思った。僕は貧乏な家庭に育ったためか『無駄なく』とか『効率的に』という考え方が骨の髄まで染み付いている。そのバックボーンも手伝って、南條さんの言葉はとても心に響いた。僕が作家を志そうと思った理由のすべてが南條さんのその言葉だったというわけではないが、僕の人生においてひとつのターニング・ポイントになったのは疑いようがない。

僕が書いたとある同人小説のなかでも、過去にあった悲しい出来事やそのときに感じた暗い気持ちをキャラクターの心情表現に活かすことができた(不出来ではあるが、その挑戦をしたこと自体に価値があると思っている)。そして実践してみてやはり思った。南條さんの言う通りだった、と。人生に無駄がなくなった、と。‟過去は変えられない。でも過去の意味付けは変えられる”とは僕の先輩の言葉だが、この体験を経てようやく腹落ちした。つらい目に遭った事実は変えられないが、その体験に意味を持たせられるかどうかは自分次第なのだ。僕の場合は表現に昇華することで、あらゆる過去を意味のあるものに捉え直すことが可能になった。南條さんが気付かせてくれたこの人生観はきっと、死ぬまで続くだろう。……余談だが、お察しの通り、当ブログのタイトルもこの人生観を反映させたものだ。

声優と作家では表現方法に差異こそあるが、表現者として本質的な部分はやはり共通らしい。だからこそ、僕は思う。南條さんのような、等身大のクリエイターになりたいと。難しい言葉で格好つけたり想像だけで語ることはせず、地に足をつけて、自分の弱さを認め、謙虚に、しかし芯のある言葉と物語を用いて、誰かの心を救いたい。夢中で読み進めていって、最後には気持ちが前を向く。そんな作品を書く。‟書きたい”でも‟書こうと思う”でもなく、‟書く”。この言葉選びが、僕なりの決意表明だ。

自分語りはここまでにする。お目汚し、失礼。


■僕は『可愛さ』を求めない。
南條さんの話に戻ろう。かねてから思っていた、南條さんの魅力に関する疑問を書こうと思う。
「南條さん可愛い!」という声をよく聞く。SNS上でもそうだし、ライブの幕間でもそんな声が飛び交う。同志であるごきんじょさん*1たちに敢えて1つだけ問うとすればこの点だ。南條さんの魅力は果たして『可愛さ』なのだろうか?
いや、別にその価値観を否定したいわけじゃない。ただ、『可愛い』を伝えたり求めたりすることで、南條さんに無理をさせてはいないだろうか、という心配を僕はしている。
idc』では‟本当は可愛いが苦手です 早めに気付いてね”と、『ゼリーな女』では‟期待通り振る舞うとか 実はうまくできるんだ”と歌っている。この2曲のテーマ(モデル)が南條さん自身であることは、収録アルバムのコンセプトからして明らかだ。加えて、今回のツアーでこれら2曲が続けて歌われたことからも、僕はその意味の繋がりを考えてしまう。

“可愛いと言われるのは苦手だけど、君たちが可愛さを求めてるなら可愛く振る舞うよ”

そんな風に南條さんがぼやいている姿を思い浮かべてしまうのは、誇大妄想だろうか。
もちろん商業活動なのでお客さんのニーズに応えることもある程度は必要だ。南條さんに可愛さを求めるあなたの価値観も決して間違いではない。しかし僕はこう考える。南條さんには、ニーズに捉われすぎず、自由な表現を追求して欲しい、と。なぜなら僕はありのままの南條さんが好きだから。
どうも苦言じみた言い方になってしまった。共感してくれとまでは言わないが、そういう考え方もあるかもな、くらいに思っていただけたら幸いだ。


■・R・i・n・g・ツアーの感想
さて、さんざん語ったような気分ではあるが、ここからが主題だ。
3rdフルアルバム『サントロワ∴』を引っ提げて敢行された・R・i・n・g・ツアーの感想である。
このツアーで僕が見聞きした全楽曲それぞれに感じたことはあったが、すべてを書こうとすると熱意が散開してしまうので、特に強く印象に残った楽曲に限定して感想を述べる。

尚、僕が参加したのは静岡・宮城・東京(両日)の合計4公演だ。
それぞれ注目すべき箇所を変えながら楽しんだ。特に最後の”あの曲”は4度とも違う感想を持った。その辺りも絡めて書いていく。

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『逢えなくても』
南條さんの真骨頂はバラード曲であり、バラード曲といえばテーマは恋愛と相場が決まっている(と僕個人は勝手に思っている)が、実は南條愛乃楽曲のなかで真っ直ぐに恋を歌った曲は多くない。その数少ない恋愛ソングのなかでも、この『逢えなくても』という曲は、恋の普遍的な切なさを大人の視点から絶妙に表現している曲だ。大人になっても恋って難しいよね、と説くこの曲はまさに『サントロワ∴』というアルバムのテーマ(”30代の教科書”)に合致した曲と言えるだろう。特に‟大人になれば なるほどに 上手に恋ができると思ってた”という一節は、ある程度の年齢を積み上げてから歌ってこそ、実体感のある重みを持つ。南條さん自身もそれをわかっている節があり、それはつまり自分の年齢をしかと受け止めていることを示す。下手に若作りせず、大人の視点からしか描けないものを素直に表現しようとする南條さんの気取らなさが僕は好きだ。
僕、綾部卓悦(20代・男性)の恋愛経験はせいぜい人並み程度だが、それでも共感できる部分は少なからずあったのと、(言うまでもないが)南條さんの圧倒的な歌唱力が手伝って、思わず涙してしまった。これは『サントロワ∴』全体を通して言えることでもあるのだが、特にこの曲は、30代になってから聞き直すのが非常に楽しみだ。きっと感じることも変わっていることだろう。そのときは、なるべく前向きな感じ方ができていることを祈る。

 

『Recording.』
前半部分でも引用したが、この曲の‟誰かの気持ち 代わりに歌うなんて大きなことは できないけど 寄り添えるような 曲になったら”という歌詞に、南條さんらしさが詰まっていると僕は思う。しかし実を言うと、そう思い至ったのは東京公演2日目に上記フレーズを南條さんが歌い上げたときだった。ここに至ってついに(ああ、この等身大で表現するスタンスがあるから僕は南條さんが好きなんだ)と気付き、泣いた。もうべらぼうに泣いた。この曲で泣くとは思っていなかったので動揺し、直後のクラップでは無様にリズムを外す有り様だった。
この曲にはもうひとつ大好きなフレーズがある。‟どんな曲に 育つのかな”という部分だ。去年の『Nのハコ』ツアーまで遡る話になってしまうが、この曲をパシフィコ横浜で直接聞くまでは(曲って育つものか?)という野暮な感想しか持っていなかった。しかし、さまざまな曲がライブで披露される度、想い出が付与されていく。あるいは曲に込められた想いを知ることで印象が大きく変わったりもする(後述する『螺旋の春』などはまさにそのパターンだった)。こういった感覚に気付いたとき、なるほど、これが“曲が育つ”ということか!と、思わず天を仰ぐような気分になったことを覚えている。
加えて、ライブでしか実現しない南條さんの『あの問いかけ』や『あのコール』も、この曲の魅力に拍車をかけていると思う。何度でもライブで聞きたい、南條さんらしさの詰まった一曲だ。

 

『スキップトラベル』
『サントロワ∴』のなかで僕が一番好きな曲だ。忙しさを理由にして行動しない内に、時間はあっという間に過ぎていく。それじゃあ人生もったいないでしょう。とにかく今だ!と思ったら財布だけ持って一人で出かけてしまおう。きっと新しい自分に出会えるよ。そんな軽やかな気分を爽やかなサウンドに乗せて歌い、足踏みしている背中をそっと押してくれる楽曲。“私が見たい場所はたくさんあって でも後回し 忙しくて行けないよ それじゃいつならいいのかなと 考えてみたときに気づいたの きっと決めなきゃ決まらない”というフレーズは本当にその通りだと思う。友達が少ない僕は割と昔からこのスキップトラベル的なスタンスで生きてきたので、より深く共感できた。
更に言うとこの曲はバンドメンバーもめちゃくちゃ楽しそうな笑顔で弾く。僕は楽しそうに楽器を演奏する人が大好きなので、そこもぐっとくるポイントだ。
話は逸れるが、実はこの曲中にある“両手あけておいて”というフレーズに感化され、僕は本当に両手をあけた状態でライブに臨んだ。要は光り物の類を一切使わなかった。鈍器もといツアーライトを買った方が南條さんは喜ぶだろうとは思ったのだが、南條さんの歌声と僕の身ぶり手振りによるコミュニケーションの間に物を噛ませたくなかったのだ。僕自身の感謝や楽しさを道具に頼らず己の肉体のみで表現したかった、とも言える。何を言っているのかわからないと思うが僕にもわからない。南條さんに伝わっているとは思えないし、自己満足と言われればそれまでなのだが、僕はこの拘りを捨てられなかった。実際、拍手はしやすかったし、体全体で音楽に乗ることに集中できたので、好判断だったと思っている。おすすめはできないが。
尚、更にどうでもいい話なのだが、僕はNツアーのライトと今回のツアーライトが凶器となるミステリ小説を書こうとしたことがある。伝わる人が非常に限られる上にごきんじょるの友の会から怒られそうなので、断腸の思いでプロットごと闇に葬った。

 

番外編『バンドパフォーマンス』
演出の都合上、『スキップトラベル』から『一切は物語』までに着替えを挟む必要があり、有り体に言ってしまえばそのための時間稼ぎに当てられているのが、このパフォーマンスだ。中にはこれを休憩時間と捉えていた人もいるかもしれないが、僕からすれば‟これを楽しまないなんて、そんなもったいないことできるわけないだろう!”と叫びたくなるぐらい素晴らしいパフォーマンスだった。南條さんの歌だけに留まらず、こんなに格好良くて熱い演奏まで楽しめるなんて、贅沢にもほどがあるだろうと本気で思った。今回のパフォーマンスは、ロック・ジャズのテイストで進行された。アルバムのテーマに合わせて‟大人感”を表現しようとしたのだと思う。もしも本当にその意図だったなら、見事に大人の恰好良さにあてられた人間が少なくともここに1人いるので、大成功と言って差し支えないだろう。
ちなみに僕は南條愛乃バンドのメンバーが全員大好きだが、敢えて一人だけ選ぶならギターの星野さんを推す。まず、顔がいい。顔がいいので、弾いてるときは当たり前のように格好良い(僕が女性だったら確実に惚れていた)。その上、演奏していないときの立ち姿まで格好良い。自分の出番ではないときは直立不動で影に徹する姿に、プロとしての美学が見える。そして口を開けばすこし天然が入った緩い性格が見える。ギャップがずるい。アーティストとしても人間としても魅力的すぎて気軽にほっしーなんて呼べない。呼ぶけど。

 

『pledge』
少なくとも静岡と宮城ではこの曲のイントロでコールが入ることはなかったと記憶しているのだが、東京公演でついにボルテージが最高潮に至ったごきんじょさんたちが、熱気溢れるコールを響かせた。もちろん僕も例外ではなかったのだが、熱狂の最中、ある意味ではこれも『曲が育つ』だなとぼんやり考えていたことを覚えている。
しかしこの曲はとんでもなく格好良い。失礼な話かもしれないが、この曲において僕の視線はほぼずっとバンドメンバーとダンサーに注がれていて、南條さんの姿はほとんど記憶にない。それほど、パフォーマンスが格好良かった。星野さんの鋭利なギターサウンドと北村さんのパワフルなベースサウンドが会場を暴れ巡り、それを追い立てるような八木さんの豪快なドラムサウンド、その中に秩序をもたらす森藤さんの繊細なピアノサウンド(これぞバンマスの在るべき姿!)、そして可憐さと情熱を注ぐYUIMaiMai両名のダンス!これで盛り上がらないわけがない。これからもライブでの定番になってほしい、最高のアッパーソングだった。
話は逸れるが(逸れてばかりだな)、コールのことに少し触れたので書き残しておく。各方面で散々言われているように、ごきんじょさんたちは本当にマナーが良い。コールという面においては静寂に合わせて叫ぶなんてもっての他、歌詞に被るところでは一切コールをしないし、盛り上がるべきところではしっかり盛り上がる。MCの合間にも妙な野次を入れたりもしない。マナーを気にしすぎて南條さんの煽りに乗り切れない瞬間があるのは少しもったいない気もするが、僕はごきんじょさんたちの秩序を重んじるスタンスがとても好きだ。この客層の良さも、南條さんを応援し続けられる理由のひとつであることは間違いない。

 

一切は物語
舞台演出が特に素晴らしかった。曲調のギャップが大きいという意味で曲自体のインパクトも強かったが、個人的にはこの曲の舞台演出、そのなかでも光線演出が強く脳裏に刻まれている。静岡公演では運良くステージ真正面の席だったのだが、この曲を最大限楽しめるポジションだったと思っている。ボーカルが終わり、厳かなアウトロと共に空間を撫で上げる青い光線。それらが曲の終わりと同時にぴたりと三角形を縁取った瞬間、これは息をのまずにいられなかった。青で縁取られた赤い三角形の中央に凛と佇む黒いドレス姿のシルエット。今でも鮮明に思い出せる。
そしてこの曲は最終日のサプライズもすごかった。それまでの公演で先入観がついていたからか、やなぎなぎさんが登場する可能性を微塵も考えていなかった。そしてこの時、僕はなぜか泣いた。僕にとっては涙を誘うような曲ではないので不思議だったのだが、今になって思うと、ゲスト登場にびっくりしすぎて泣いたのだと思う。子供か。

 

『ほんとはね。』
カバー曲の話をする。正直なところ、『サントロワ∴』の特典CDの楽曲リストを初めて見たときは、がっかりした。知っている曲がひとつしかなかった上、その唯一知っていた曲もいかにも30代向けで、20代の身としては素直に喜べなかった。『Nのハコ』の特典カバーCDが良かっただけに、余計に落胆の度合いは大きく感じた。
しかし、今回のツアーでこの曲を生で聞いたとき、その認識は完全に覆された。
特筆すべきはやはりラストを飾るハイトーンだろう。これが、本当にもう、言葉にできない美しさだった。作家を目指している身としては悔しいが、あのハイトーンの美しさを適切に文章化する実力がまだ僕にはない。しかし恥を捨てて意地を通すならば、"澄みきった青空へ高く抜けていく一条の銀の光"とでも喩えようか。…うわあ、恥ずかしい。小説的な表現をブログで使うのは、酔った勢いで語るべきことを素面で語ってしまったときのような気恥ずかしさがある。何も見なかったことにしてほしい。
話を戻そう。この曲で顕著に現出した南條さんの圧倒的な歌唱力そのものに泣かされたのは、きっと僕だけではないと思う。万が一、この音源を聴いたことがない読者がいたら、そのまま一生手を出さないことをおすすめする。1度でも聴いてしまえばきっと、生で聴きたかったと強く後悔してしまうだろうから。

 

『だいすき』
夢を追う人間にこれほど刺さる曲もなかなかないだろう。僕自身、小説を書くことに向いていないと思うことは多々ある。理想と現実のギャップに苛まれたり、他人の作品と比較してしまう自分が嫌いになって、実際に小説から距離を置いた時間だって少なくない。しかしそれでも、自然と小説のことを考えてしまっている自分にふと気付く。そんな経験を経て、やぱり僕は小説が『だいすき』なんだなあと確信を深めていった。こういった心の動きを今こうして言葉にできるのは、間違いなくこの曲に出会ったからだ。
心が折れそうになったとき、この曲を通して南條さんに“悩んで 立ち止まっても また頑張るんでしょ?”と問われると、僕は何も言わずに頷くほかない。メンタルが病みそうになったときにやさしく背中を押してくれる、僕にとってとても大切な曲だ。今回、再び生歌を聞けて、その想いは一層強くなった。

 

『螺旋の春』
ツアーを経て大好きになった曲だ。初めて触れたときは曲に込められた意味を感じ取れず、まあ普通のバラードだなくらいに思っていた。あの頃の自分を殴りたい。
僭越ながら、南條さんの口から語られたこの曲の解説の要約を以下に書き起こしてみる。(僕自身の解釈が多分に含まれているが、概ねは合っていると思う)
“――生きていると、何度も同じようなことで悩むこともあるだろう。その度に、ああ、また同じことで悩んでる。本当に成長しないな、自分。そんな風に考えてしまいがちだが、少し視点を変えてみよう。上から見れば同じところをぐるぐる回っているだけに見えるかもしれないが、横から見ればどうだろう。同じことで悩んでいると感じても、もしかしたら螺旋のように少しずつ上昇しているかもしれない。春を迎える度に逞しくなっていく梢のように、実は少しずつ成長できているかもしれない。だから、少しだけ自分を肯定してあげてもいいんじゃない?”
以上のような解説を経て、僕の中でこの曲は完全に化けた。なんて斬新で、やさしく、嫌みのないメッセージだろう。寄り添うような曲とはまさにこんな曲を指すのだろうと、僕は認識を改めた。『Recording.』の節でも述べたが、こういった変化もまた、曲が育つということなのだろう。
素晴らしい作詞・作曲をしてくださった橋本由香利さんに最大級の敬意を表したい。もちろん、それに共感し、丁寧に歌い上げてくださった南條さんにも。

 

番外編『アンコール』
ここでは、南條さんとまったく関係ないことを話そうと思う。今回のライブツアーを経て僕自身が僅かばかり成長できたことについてだ。一歩踏み出す勇気を出せた、という話になる。
断言しておくが、これは僕以外の人間にとっては極めてどうでもいいことだ。故に読み飛ばしていただいて一向に構わない。
ツアー最終日のことだ。ステージから演者が捌けて、アンコールが会場に響く最中、僕は怖じ気づいていた。というのも、僕はアンコール!と叫びたいのに、それをしにくい雰囲気だったからだ。僕の席の周りには偶然にも物静かなごきんじょさんたちが固まっていて、拍手で意思表示はしているものの、大声でアンコールを叫ぶような人はいなかった。僕は単番で参加したので近くに知り合いもおらず、ひとりで悶々としていた。声に出してアンコールを求めたい。自分の喉を震わせて気持ちを表現したい。でも、周りは誰も声を出していないので、ここでいきなり大きな声をだしたら浮くだろう。それが怖かった。周りの視線を気にしてしまっていた。悩んでいる間にも時間は過ぎていく。もしかしたら次の瞬間には演者が戻ってきてアンコールは途切れてしまうかもしれない。もういいかな。どうせ自分の中の問題だし。そう諦めかけたとき、ふと思った。周りの雰囲気に負けて自分のやりたいことをしなかったら、これは今回のツアーに後悔を残すことになる。それは嫌だ。自分の意気地がないせいで南條さんのパフォーマンスに泥を塗るような感じがする(勘違い甚だしいのだが、このときは本気でそう思った)し、それって南條さんに対して失礼じゃないか。そう考えた次の瞬間、声が出ていた。
繰り返すが、他者からすれば本当に些末なことだと思う。アンコールの声を上げる人間がひとり増えただけの小さな変化だ。でも、僕にとっては違う。周りの雰囲気に流されずに一歩踏み出せたことは、気弱な僕にとって、大きな変化だった。そんな機会をくれた南條さんに、感謝の念は深まるばかりだ。

 

『だから、ありがとう』
この曲について語ることはあまり多くない。僕はただひたすらに”こちらこそありがとうございます”の精神で耳を傾けていた。しかし最終日だけは少し違っていた。”こちらこそ”精神が高まった果てに、思わず南條さんと一緒にこの曲を歌いたくなってしまったのだ。もちろん実際にそんなことはしていない。体ではひたすら聞き入っていた。その代わり、心のなかで歌った。南條さんが僕たちへの感謝を歌うように、こちらからも感謝を歌い返したかった。心のなかで歌うだけでは何も伝わらないのは重々承知だが、そうしないわけにはいかなかった。僕と同じように考えていた人はどの会場にも少なからずいただろうと、根拠なく確信している。

 

『・R・i・n・g・』
さて、いよいよ最後の曲だ。この曲を語らないわけにはいかない。先にも触れたが、この曲に関しては4公演とも違う箇所に着目し、違う感想を持った。
まず静岡公演。これはもうひたすら楽しかったの一言に尽きる。公演前は聞いたら泣くかもしれないと思っていただけに、意外だった。実は静岡公演当日、諸事情から携帯すら持たずに某所をひとりきりで観光する機会に恵まれた。狙ったわけではないのだが、本当に誰とも繋がっていない(つまり、縁のない)状態というのを久しぶりに体験したため、それから聞くこの曲はどんな感じ方をするのだろう…とセンチメンタルな気分で会場に足を運んだことを覚えている。しかし結論は既に述べた通り、楽しかったの一言である。ごちゃごちゃ考える余裕がないくらい、南條さんの世界観に引き込まれたということにしておきたい。
次の宮城公演では着目する点を変えた。そして号泣した。間奏の演出でのことだった。静岡公演では、三角形のスクリーンに次々に映し出されるファンからのメッセージフォトに視線を奪われていて、(ああ、南條さんは本当に愛されてるなあ……)とあたかかい気持ちで胸が満たされていた。しかしこの宮城公演では、少し視線を下げて、南條さんの背中を見ていた。南條さんは特別な行動をしていたわけではない。リズムに乗りながら三角形のスクリーンを見上げていただけだ。その背中を見て、僕は泣いた。理由は、ファンの想いはきちんと伝わるんだと安心できたからだと思う。もちろん南條さんはファンのメッセージを受け取っていないんじゃないか?と疑っているわけではない。ちゃんと受け止めてくれるひとだと思っている。ただ、やはり芸能人がいちファンの想いに対して大っぴらに反応するわけにもいかないのがこの世の中の窮屈なところだ。だからファンの想いはこっそり見えないところで本人の手に届く。しかし、見えないものはなかなか信じにくい。本当に伝わっているのだろうか、と不安になることがないと言えば嘘になる。しかし南條さんはステージの演出としてファンからのメッセージを用いることで、ちゃんと見てるよ、伝わってるよ、と僕たちの目の前で大っぴらに示してくれたのだ。ステージという巨大な仕掛けを用いて、最後の曲という大事な局面を消費して、僕たちとの繋がりを表現してくれた。なんて斬新なんだろう。なんて優しいんだろう。なんて南條さんらしいんだろう。そんな想いで胸がいっぱいになり、涙が止まらなくなった。
3度目。東京公演1日目。この回は寂しさが勝った。直前のMCで南條さんから語られた内容が直結したのだと思う。もうあと1回でツアーファイナルを飾るこの曲は聞けないんだと考えてしまい、ただただ刻み込むように聞いていた。涙こそ流さなかったが、染み入るような気持ちだった。
そして最終日。まさに集大成とでも言おうか、これまでの3公演で感じたことをすべてミックスした感情が胸に去来した。泣きながら笑う、という体験をしたのは生まれて初めてだった。ピークはやはり間奏部分で、心の底から楽しんで笑顔を浮かべ、同時に、感動と寂しさで号泣した。酷い顔をしていたはずだ。曲終盤の「絶対?」に対してのレスポンスは、心のなかでは「たのしー!」だったが実際は「ダノビィィヴォォォ!!!!」みたいな声を出していたと思う。酷い。本当に酷い体たらくだ。しかしあれほどの、名付けがたい感情の渦を経験できたのは、間違いなく僕の財産になる。
実は僕にとって同一アーティストのツアー公演に4度も足を運ぶ経験は初めてだった。正直、同じ公演を何度も聞く意味がわかっていなかった。しかし今回でようやく、その意味を理解した。仮にセトリがまったく同じだったとしても、ステージ演出という大量の情報があるため、着目するところを変えれば何度でも楽しめるのだ。CDで聴くだけでは得られない楽しみ方がそこにある。そういった新しい発見も、今回のツアーで得ることができた。たくさん笑って、たくさん泣いて、たくさん考えた。本当に良いライブツアーだった。


■結局、僕はこう言いたい。
長くなってしまった。

最後に、僕がこの記事で言いたかったことを列挙し、結びとする。

 

僕は、生身の南條さんが大好きだ。
気取らないところが大好きだ。
ステージと客席との垣根を作らない姿勢が大好きだ。
幅広い表現力が大好きだ。
圧倒的な歌唱力が大好きだ。
そして、血の通った言葉で、生き方のヒントを与えてくれるから大好きだ。

故に僕はこれからも、肩書きや役柄を被っていない、生身の南條さんを応援し続ける。

 

以上だ。
こんな長文を最後まで読んでくださったあなたはとてもやさしい人だと思う。
だから、あなたにも、ありがとう。

*1:南條愛乃ファンの通称。ファンクラブ名『ごきんじょるの友の会』に由来する