無駄はない。

論理的に、そして感情的に。

Aqours 3rd LIVE 埼玉公演について思ったこと。


以下はすべて僕自身のために書いた文章です。
誰かや何かに作用させようという意図はありません。
(丁寧語なのは自分の文章を客観視するためです)

 

Aqours 3rd LIVE 埼玉公演について思ったこと。

 

①構成の意図がわからなかった
②リベンジしてほしかった
③「完成」と言ってほしくなかった
④なぜこんなことを考えてしまうのか

 

①構成の意図がわからなかった

アニメ2期の物語を追走させたかったのか盛り上がるライブを目指したのかがわかりませんでした。
主に3点、引っかかった部分があります。

 

第一に、アニメーションを挟むタイミングが不自然だということ。
MY舞やきみここを披露するのは良いんですけど、楽曲やったあとにアニメーション流したのはどうしてなんでしょう。
個人的には、アニメーション→楽曲の流れのほうがアニメの追体験をさせるという意味では効果的だったように思います。

 

第二に、SKY JOURNEYと恋アクを入れた意図を汲み取れませんでした。
構成の意図がわからなくなった要因としてはこれが最大です。
曲の位置づけも歌詞の意味合いもアニメとは無関係であるように感じてしまいました。
僕の考察不足だったという可能性も大いにあるものの、釈然としません。

(実際、あまり歌詞の考察等はしていないので気づかなかった意味があるのかも)

 

そして最後に、アンコールの入るタイミングです。
12.5話をやったのも個人的には納得していないんですが(アニメはアニメで完結させたほうが綺麗だと思っているので)、
まあそこは置いておくとしても、

WBNW→「本日はありがとうございました」→アンコール→青ジャンの流れにすると、
よりアニメの流れを追えるような気がしました。

 

以上3点が、構成という面から見て引っかかりを覚えた部分になります。
そうしなかったのは何らかの事情によるものなのか、それとも意図があったのか。
意図があったのなら、その意図を理解することは、現時点の僕はできていません。

 

物語のコンテキストを重視しているのかいないのかわからない構成、という印象が残りました。
その違和感があったので、僕はあまりライブに没入できませんでした。
それが残念です。

 

とはいえ、物語を取り込もうとしてくれたこと自体には感謝したいです。
僕は物語が好きなので、そこを完全に蔑ろにされなかったのは良かった。
部分的(たとえばAtP)には良かったところがありましたし、言うほどがっかりはしていません。

 

あと、言うまでもなく、個別のパフォーマンスは素晴らしかったです。


②リベンジしてほしかった

逢田さんのソロ曲についてです。

すごく高望みです。それは自覚しています。
ただ、彼女にはピアノ伴奏をしてほしかった。

 

1st LIVE day2『想いよひとつになれ
あの感動を忘れた人はいないでしょう。
なぜ、あれほどの感動が生まれたかと言えば、彼女自身が失敗を乗り越えたからです。
人は、誰かが失敗を乗り越える(=成長する)姿に心動かされます。

 

その『過去の失敗を乗り越える』というドラマを今回も演出できる余地があったように思います。
1stで失敗したピアノ(現実にはその場で挽回しましたが)を3rdで完璧にこなす。
弾き語りという演出を以って、ピアノ演奏のリベンジを果たす。失敗を乗り越える。
そういうドラマを見たかった。
アニメの梨子ちゃんの経験(挫折と成長)にも重なり、より感動的になったような気がします。

 

とはいえ「どうしてやらなかったのか?」という言及はできません。
裏事情を知っているわけではないからです。
予算や規約の関係で実現できなかった可能性もあります。
厳密にはアニメベースではなく現実ベースの演出になってしまうので、
それが今回のライブのコンセプトにそぐわないという判断だったのかもしれません。
(そうだとしたらそれはそれで①に書いたような違和感は残ってしまったんですけど)
そういった、本人の努力ではどうにもならなかった可能性があるので、逢田さんを責めることはできません。

 

ただ。
「やってほしかったなあ」
シンプルにそういう気持ちが残りました。


③「完成」と言ってほしくなかった

2日目のMWについて。

誤解なきよう言いますが、ミスしたことそのものを責めるつもりはありません。
ミスは誰だってします。
ミスしないことを目指すなら挑戦的なことをしなければいいだけです。
でも、そうしなかった。それでいいんです。
無茶に挑戦し続ける姿勢がAqoursらしさだと思います。

 

大事なのは、ミスした後にどうするかです。
その後も笑顔で歌いきりました。素晴らしいです。
悔しい!と正直に言いました。人間らしくて最高です。
ただ。
あのMWを「完成させた」と言ってしまった。
それがすごく引っかかってます。

 

まず「完成」とは何を指すのか。それを整理します。
僕自身はダンスや歌に明るくないので小説でたとえて考えてみます。
「小説の完成」とはなんでしょうか。
そんなものはない、という回答もありでしょう。
小説に限らず、文化的・芸術的な活動に100%の正解はありません。
作用する対象が、人間の心というひどく曖昧なものだからです。
全人類の心に届く作品なんて絶対に存在しません。
仮にそこを終着とするならば、作品は永遠に「完成」しません。

 

しかし現実には小説はひとまずの「完成」を経て、世の中に流通しています。
いやまあ「未完成」のまま世に出ていると言うこともできるんですが、
それだと個人的に収まりが良くないです。
なので、「完成」の定義のほうを疑ってみます。

 

改めて、完成の条件とは何かを小説に当てはめて考えます。
まずは(連作でない限り)最後までストーリーを書ききることが挙げられます。
いわゆるオチがつく。書きたいテーマを表現できた。それがゴールです。

 

では、その「オチがついた」「表現できた」をジャッジするのは誰でしょう?

 

少なくとも僕の場合は、自分自身です。

 

自分なりの納得があること。それが「完成」の感覚なのだと思います。
ひとまず書ききって、そこから推敲を重ねて、場合によってはレビューをもらって、
それを踏まえて修正し、もう直すところが見当たらないというところまでいったら、ひとまず完成とします。

 

つまるところ、「自分で納得するところまでやった」というラインを満たしたら、
それがはじめて「完成」なのだと、少なくとも現時点の僕は思うわけです。
(締切という制限時間内での話なので、品質の限界はありますが)

 

そしてこの完成の定義は、小説に限らず、おおよその作品に通ずる観念だとも思っています。
無論、ライブパフォーマンスという作品においてもです。

 

話を戻します。

 

「MW完成させたぞ」
あれは、伊波さんの心からの発言だったんでしょうか。
時に痛々しいくらいストイックで、
誰よりも悔しいはずで、
完璧なパフォーマンスを目指して努力を重ねていたであろう伊波さんが、
ミスのあった内容を「完成」と言いました。

 

重ねて言いますが、ミスしたこと自体はいいんです。
ライブですからそういうこともありますし、果敢な挑戦の結果なので。

 

僕が引っかかったのは心構えの話です。

伊波さん自身は、本当に「完成した」と思っていたんでしょうか。
もちろん僕はテレパスじゃないので彼女が何を思っていたかなんてわかりません。
でも、「悔しい」という気持ちは口にも出していたので間違いなくあったはずです。
その「悔しい」結果のまま「完成」と言いました。

 

これも繰り返しですが、
僕の中での「完成」の定義は「自分で納得するところまでやった」です。

 

伊波さんはどうだったんでしょうね。
納得してないまま「完成」と言ったような気がします。
それでよかったのかな。
彼女、自分に嘘ついたんじゃないでしょうか。
そこが引っかかってます。

 

もしかしたら、その日にしか来れない人たちを意識したのかもしれません。
今回が最初で最後の一回で、次はない。そういう心を慮った上での発言だったかもしれません。
もっと単純な話、ライブのテンション(勢い)だったのかもしれません。

 

それでも、自分に納得していなかったのなら。
「ごめん、完成させられなかった!悔しい!次は絶対完成させる!」
僕は、そう言ってほしかったです。

 

で、ここまで書いて、ふと思いました。
ライブパフォーマンスという刹那的な作品においての「完成」って、
ある意味、実行に移す前から決まってるのかもな、と。

 

あのときにできたこと(その局面を迎えるまでに積み重ねたこと)がベストであり、
実際に何が起ころうが、完成と言うしかない。

 

小説に置き換えると、自分がまったく納得してなくても、
締め切りを守るために「完成」と判断を下さなきゃいけない時もある。
そういうことだったのかもしれません。

 

いやまあ、そうならないように最善を尽くせという話ではあるけど。
でも、最善を尽くしたうえで結果が伴わないなんてことは往々にしてあるわけです。
まあ、発展途上だし。
瞬間というレンジで見れば「完成」だったのかもしれないなあ。

 

(うーん。思考の落書き感がすごい)


④僕はなぜこういうことを考えてしまうのか

別にAqoursのことを嫌っているわけではないんです。

少し話は逸れますが「東京ドームは早すぎる」とか、そういうことはまったく思いません。
先輩の作ってくれた土台の上でやっているのだから、先輩と同じ地点をゴールにするのはおかしいです。
先輩でも辿り着けなかった場所に行く。
それが継承の目的であり、それを果たすのが後輩の責務です。

 

ただ、そういう目で見ているからこそ、期待が大きくなっている面があります。
厳しすぎる目線で見ているのかもしれません。
理想を押し付けているのかもしれません。
でも、自分にとってラブライブは大事なコンテンツなので、
その看板を背負っている彼女たちへの期待はどうしたって大きくなってしまう。
この辺りの感情は、どうコントロールすればいいのかなあ。

 

あとは、僕が作り手側だからというのもあると思います。
ここまでの話はすべて「提供する」「創作する」側の目線が少なからず入っています。
逆に純粋な受け手としての感覚は薄いです。

 

(特に長編の)小説を書いていると、
どうしても全体の構成・効果的な演出・人物の心の機微を気にするようになってしまいます。
ミステリーという、整合性を重んじるジャンルというのも関わっているかもしれません。
その意識が、作品の受け手になったときにも働いているような感覚はあります。

 

もっと純粋に受け取るべきものを純粋に受け取れていないという側面があるんでしょうね。
うまくスイッチできればいいんですけど、人間なかなかそう単純にはいきません。

 

ただまあ、Aqoursコンテンツに関しては、ちょっと肩の力抜くべきなんだろうなとは思います。
別にもう後がないわけでもないんだし。
「次はもっといい感じになると嬉しいなあ」くらいに思っておくのがよさそうです。

 

感じてしまったネガティブさを無かったことにはできません。
でも減らす努力はできる。
0か1で考えないとか、何にだってモチベーション(関心)の波が存在することを再認識するとか。

あるいは、自分の考えをひとまず外に出してみるとか。

 

はい。お察しの通り、この文章を書いたのもそのためです。
冒頭で「自分のため」と言ったのはそういう意味です。

 

こんなところかな。

 

いつも以上にまとまりのない文章になった気がします。
とはいえ、気持ちの整理という意味では有効でした。
やっぱり抱え込むより吐き出したほうがすっきりしますね。

 

さて、やるべきことはまだたくさん。
切り替えて、次にいきましょう。

『黒澤ダイヤに翼はいらない』反省文

この記事は拙作『黒澤ダイヤに翼はいらない』を振り返り、反省(主に悪い点)を列挙した内容となっています。

ネタバレがあるので、あらかじめご了承ください。

 

この記事読んでてまだ読んでくださってない人はいないと思いますが、

 

いないと思いますが、

 

万が一いらっしゃった場合に備えてリンクを貼っておきます。

上が書籍版、下が電子版です。お好みのほうをどうぞ。

takuetsu-novels.booth.pm

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さて、大まかに以下の流れで書きます。
 
①ストーリー展開の反省点
②文章の反省点
③キャラクターの反省点
④世界観の反省点
⑤雑感
 
ざっくり分けただけなので枝葉の部分で違う話にもなるかと思います。
その辺りはご容赦願います。
 
 
 

①ストーリー展開の反省点

「順風満帆だけど満たされない人生」と「ぎりぎりだけど熱い人生」の対比が甘い

言ってしまうとこれがダイヤさんの生き様を表す上で非常に重要な対比だったんですが、ここもっと強調したかったなあ、と。
自由に生きることの空虚さを強調するにはある程度の時間経過が必要だと思ったんですが、あまりあの世界で長い時間(例えば1年とか)過ごさせてしまうと、状況打破のきっかけの発生が不自然になるような気がしてしまって。
まあそっちはまだいいにしても、問題は後者ですね。
ダイヤさんが「ぎりぎりだけど熱い人生のほうが楽しい」と気づくために、もっと良いイベントを用意できた気がしています。
ライブ直前にとんでもない困難が立ちはだかりそれを仲間と一緒に乗り越えるとかそんな感じの。
 
じゃあ今後はどうする?
⇒対比したいものを明確にしてからシーンを作り込む。

 

感動の押し付けになっている気がする

これは感覚的な話です。
そもそも感動ってなに?
エモいってどういうこと?
押し付けって感覚はどこからくるの?
僕には未だによくわかりません。
このダイヤの話はエモさの正体を理解するために書いたので、目標未達です。
いや、それこそ感覚的にはわかるんですが、明確な理論として説明できるまで落とし込みたい。
なぜかというと、システマティックにエモい話を書けるようになれたら最強だと信じているからです。
 
じゃあ今後はどうする?
⇒感動する作品に出会ったら何度も読み返してその理由を分析する。
 
 

二次創作でテーマ性をもたせるのは限界があった

ストーリー展開とはあまり関係ないんですが、他に適切な区分もなかったのでここに入れました。
まあ、考えてみれば当たり前なんですよね。
世界観があってキャラクターがいるということは、彼らのテーマはもう決まっているんです。
意識的にせよ無意識的にせよ、先にテーマ(主張)があって、それを表現するために生まれるのがキャラクターですから。(必ずそうだというより、あるべき論ですけど)
で、他人の世界観やキャラクターをお借りして、自分のテーマを表現しようとするとどうなるか。
まあ、窮屈ですよ。
自分の抱えるテーマと共通性や親和性のあるポイントを見出して折衝していくという手続きは避けられません。どちらかを蔑ろにするなら別ですけどね。
原作を大事にしつつ、自分の表現したいテーマをどう織り込むか。これが二次創作の難しさだと感じました。
一次創作はその点、責任(というか負荷)は重くなりますが、自由です。
なんだか日本とアメリカみたいですね。
 
じゃあ今後はどうする?
⇒テーマ先行で書くなら一次創作にする。

 

 

②文章の反省点

描写に具体性がない

そのままです。シンプルかつ最大の課題。
語彙と知識と想像力の欠如が原因ですね。
(ここでの想像力は、頭のなかで細部をイメージできる能力とします)
まあこれに満足する日は一生来ないんでしょうが、反省として挙げないわけにもいきません。
読書できない日でもせめて想像力くらいは鍛える習慣をつけないとだめですね。
ただ、何でもかんでも具体的にすればいいかといえばそうでもなくて、これもやっぱり場面とかテーマによって合わせるべきだと思います。
理想としては「いつでもいくらでも具体的に書ける」けど「使いどころを見極められる」です。
ただ、現時点での僕はひいひい言いながら具体性を出してる状態なので、まずは余裕をもって具体性のある描写ができる力をつけます。
 
じゃあ今後はどうする?
⇒語彙:新しく出会った単語・表現はメモに残す。
⇒知識:なんとなくで書かない。未経験のことでもブログで体験談を探すなどする。
⇒想像力: 1日に1つ以上、何かを集中して観察する。

 

テンポが悪い

ここでいうテンポの悪さとは、「速すぎる」という意味です。
心理や情景の描写が弱いため、地の文が動作や情報ばかりになり、緊迫した場面での「間」を上手く演出できていません。
さくさく読めるといえば聞こえは良いですが、そのテンポでしか書けないというのは問題です。
特にミステリはテンポ良く読ませるべきところとそうでないところの両方が確実に登場する(状況整理はテンポ良く、犯人の摘発は焦らしつつ、みたいな話です)ので、間をコントロールするテクニックは身につけないといけない気がします。
 
じゃあ今後はどうする?
⇒心理・情景描写の分量を意識的に増やして一本書く。

 

プロットを追うことだけに視点が偏り、物語全体が性急な印象になっている

テンポの悪さと似てるんですが、こちらはもう少しマクロな話です。
要は遊び(余白といってもいいかもしれません)が足りないんですよね。
ある読者の方に「ダイヤさんがフェルト人形に慣れるまでの時間が短いように感じた」というご指摘をいただいたんですが、その印象もここから来てしまったのだと思います。
僕は基本的に無駄が嫌いなので、つい「この場面(文章)は物語を成立させる上で本当に必要なのか?」と考えて要らないと思ったら躊躇なく削ってしまうんですが、この性格に引っ張られて遊びの部分まで削ってしまった気がしています。
例えばカラオケやラジオの件も、そのあとに待つ物語の落差を強調するために必要という意識だけで書いた結果、展開が速くなってしまいました。振り返ると、あの辺りはもう少し文章で遊んでいい部分だったかもしれません。
というか、そこに限らず全体的にぎりぎりまで切り詰めてしまった感じがあって、その結果、冷淡で性急な感じになってしまったかなあという反省です。
これは文章の話でもあり同時に展開の話でもありますね。
もっと遊び(レジャーという意味に限らず)のシーンを入れても良かったのかも。
まあそれで中弛みしたら本末転倒なんですけど…そのバランスも難しいですね。
 
じゃあ今後はどうする?
⇒無駄だと思ってもすぐには削らずまずは書いてみる。
⇒展開が早いと思ったら思い切ってワンシーン追加してみる。

 

日常シーンを書くのがめちゃくちゃ苦手

反省というより気づきなんですが、これ、痛感しました。
カラオケとかラジオの部分、本当に書けなくて。
根暗だからですかね。友達も少ないし。
なんて自虐はさておき。
どうして何気ない日常を書くのが苦手なのか考えました。
結果、僕が小説を書く目的と合ってないからなんじゃないかと思い至りました。
日々の尊さとか、日常に潜む小さな幸せとか、そういうテーマがわからないわけではないんです。
ただ、僕は痛みや迷いを抱えて生きている人のために小説を書こうとしています。
僕自身含め、そういう人たち(そういう状態にある人たちといった方が正確ですね)って、他人の幸せを直視するのがつらいんですよ。
どうして自分はああじゃないんだろうって思っちゃうから。
そういった感覚が自分のなかにもあるから、恵まれて幸せな日常の描写を無意識に避けているんじゃないかな、と。
今回みたいにあからさまな急落の予兆として必要な場面じゃなかったらたぶん書けませんでした。
ですが、救いの局面を書くバリエーションを増やすために、伸ばす必要はあるかなと思っています。
 
じゃあ今後はどうする?
⇒楽しい体験をしたら日記に残す。
⇒楽しそうにしている人も観察する。

 

シリアスさの表現を重い単語に頼ってしまっている

「断絶」や「生贄」という単語の重さを文章で支えられていないんですよね。
では、単語に頼らない描写をするときに何が必要なのかというと、情景描写や心理描写の能力なのかなと。
情景とはつまり五感を通して得る情報ですが、それらにある共通したイメージを付与することで重い(書きながら気づきましたが重いに限らずですね)表現を文章全体で支えられるのかなと考えています。
なぜなら情景描写がしっかりしていればそれだけ読者のなかにもシーンが疑似体験として落ちていき、それが単語の重さを支える地盤になるからです。たぶん。
逆に軽い表現を使いたいならあまり書き込み過ぎないほうがいいのかも。この辺りは実験しないとわかりませんね。
心理描写についてはシンプルで、同類の心境を色んな言葉で表現できるようになれるといいのかなと思います。
もちろん絶対の正解はないと思うので、情景描写・心理描写に拘りすぎず、試したり勉強したりするなかでアプローチを変えていこうと思います。
 
じゃあ今後はどうする?
⇒まずは情景に意味を持たせて間接的に描写するよう心掛ける。

 

二次創作であることに甘えて描写を多々省いてしまっている

校舎の構造などもですが、特に人物の容姿ですね。
ダイヤさんに限らず、個々の容姿の描写は省くべきではありませんでした。
二次創作として読ませるだけなら構わないのですが、文章の訓練という側面もあったので、ある意味ではサボりです。

じゃあ今後はどうする?
⇒二次創作だろうが原作知らない人でも分かるくらい書き込む。
 
 

③キャラクターの反省点

ダイヤさんの人物像を深堀りしきれなかった

書き上げた当時は自分でも頑張ったとは思っていたんですが、振り返るともっともっと考えられたことがありました。
たとえば、ルビィちゃんのことを大事に想うようになった原体験とか、家からの抑圧を受け入れていくプロセスとか、生徒会長という役職との向き合い方とか。
詰め込み過ぎても処理できなくなるので実際に作中で描写するかは別にしても、考える余地と意味はあったはず。
 
じゃあ今後はどうする?
⇒人物を深堀りする観点を整理して一覧化する。

 

ダイヤさんの身勝手さを断罪できてない

ダイヤさんには、生徒会長の立場を利用してスクールアイドル部の設立を拒否し続けた罪があります。
その報いを充分に与えられなかったように感じています。
とはいえ、第五章でさんざん苦しんでもらったので、それが一応の罰にはなっているような、いないような。
じゃあ償いは?と言われると、「どんな時でも真剣にアイドル活動に取り組むこと」であるとも捉えられるかもしれません。
ただ、スクールアイドルになれなかった子たちがそれを望んでいるのかは微妙です。
なれなかった子たちへの誠意を見せることが、ダイヤさんが罪を雪ぐのに必要なアクションだったようにも思います。
あの世界では難しいにせよ、元の世界に戻ってからそういうことさせるべきでしたね。
ただ、エピローグが長くなるのもあまりよろしくないような気がします。
読後感とトレードオフですかね。いや、実際はもっと上手いやり方があるんでしょうね。うーん、未熟。
 
じゃあ今後はどうする?
⇒そのキャラを憎むキャラの視点に立ち、何をしたら許せるか考える。

 

後半、ダイヤさんに主体性がない

五章前半で落ち込んでから立ち直るまでの間にダイヤさんが自分の意志で起こした行動は、メンバーの前で自分の醜さを吐露することだけでした。
この行為によって仲間からの肯定を得て立ち直ったといえばそうなのですが、結局結論を他人に委ねたままなんですよね。
そうではなくて、自分の意志でポジティブな結果を掴みにいかせた方がよかった。
例えば、船に跳び移るときだけは自分の足で跳ぶなど。
どうして主体性を気にするかというと、そうでないと主人公にした意味が薄いな、と思うからです。
 
じゃあ今後はどうする?
⇒主人公にはなるべく自分の意志で決断・行動させる。

 

ルビィちゃんの深堀りがまったくできていない

ダイヤさんはまだしもルビィちゃんはもう確実に足りてなくて。
どうして姉想いになったのか。
どうして自分を卑下してしまうのか。
事件を起こすに至ったきっかけは何だったのか。
彼女にとってダイヤさんの結論は幸せなのか。
などなど。
その辺りをうやむやにしても成立してしまう話にしてしまったのは、逃げですね。
主人公であるダイヤさんのことを考えるのに体力を使い果たした感じです。
前作で人物深堀りから逃げたのと同じ。まるで成長していない…。
ただ、考えられていたとしても作品のなかに落とし込んだかはわかりません。
あくまでもダイヤの話なので、ルビィの掘り下げまで手を伸ばしてしまうと主張がブレる可能性はありました。
ここで反省としているのは、考えることすらできなかったという点です。
ルビィのことを書かないにしても、深堀りした上で除外するという選択ができれば理想でした。
この件に限った話ではありませんが、考えた上で書かないのと考えずに書かないのでは些細なセリフや行動の説得力が変わってくると思います。
そういった細部にこそ神は宿るといいますし、決して手を抜いてはいい部分ではなかったはずです。
 
じゃあ今後はどうする?
⇒複数人の心境を深く考えないと成立しない話を一本書く。

 

 

④世界観の反省

SFという自由度の高さに甘えた

SF(今更ですが僕はSukoshi Fushigiの意味で使ってました)を初めて書いてみて、なんでもできるなって思ったんですけど、それに甘えた部分もありました。
例えばルビィちゃんがその力を得てしまった理由だとか、ダイヤさんだけ記憶が残った理由とかですね。
あの辺りは完全に「SFだから」のご都合主義で済ませてしまったんですけど、しっかり考えていれば物語を豊かにするエピソードが生まれたかもしれません。
実際に考えたとしても使うかどうかはやはり別問題なんですけど、考える余地はあったなという感じです。
 
じゃあ今後はどうする?
⇒細かい部分も誤魔化さないで済むように時間配分を考えて執筆する。

 

フェルト人形を活かしきれなかった

異世界(超常現象)であることを一発で表現するために、無関係な人間の容姿を変えるという手段を僕は選びました。
一応、ルビィの得意分野だからという意味でフェルト人形にしたので、まったく何も考えなかったわけではありません。
ただ、それ以上の意味を持たせられなかったのはもったいなかったかなあ、と。
人形に接することで起きるエピソードを織り込めていれば、もっと意味ある設定にできたかもしれません。
 
じゃあ今後はどうする?
⇒その設定を採用する意味を2つ以上は考える。

 

 

⑤雑感

……できてないところしかないのでは??????????
 
いやもう本当にできてないところばかりで書きながら気が滅入りました。
滅入りすぎてツイキャスで泣きながら喋り倒したなんてこともありました。
嘘です、泣いてはいません。盛りました。
 
 
ともかく、ツイキャスに限らず色んな場面でアドバイスやご指摘いただいた点は自分で気づいていなかったものばかりでしたので、本当にありがたかったです。
同時に励ましのお言葉もたくさんいただいて、なんとか立ち直ることができました。
本当にありがとうございました。
 
ここに書いた問題点を一気に解決するのはたぶん無理ですし、自分で気づけていない反省点や書こうとして忘れてる反省点も多々あるとは思うんですけど、そういうのも掬い取りつつ精進します。
 
以上!…といいたいところですが、 
具体的なアクションまで書かないと反省になりませんね。
 
というわけで宣言。
まずは弱点である心理・情景描写に注力した中編を一本書きます。
というか、書いています。
完成したらPixivで全部公開します。目標は五月末公開です。
 
人を選びそうですが、面白い話にします。ご期待ください。
 
 
最後に。
感想フォームをご用意しております。
 
選択式なので気軽に入力できます。匿名でお送りいただくことも可能です。
ご感想お待ちしております。
 
 
今更…とかはお気になさらず。作り手にとっては、いつ頂いても嬉しいものです。
そして、ここに放り込んでいただけるとログとして流れないので実は見返すときにすごく助かります。
もちろん悪い点のご指摘もウェルカムです。
よろしくお願いします。 

 

今回は以上です。

乱文失礼しました。

「原稿に集中する、いくつかの冴えたやり方」

キーワード

同人、原稿、集中力、科学的根拠、早期入稿

 

さて皆さん。

 

進捗どうでしょう?

 

はい。
今、画面から目を逸らしたくなったあなた。
仲間ですね。
もしかしたらこの記事は、あなたの役に立つかもしれません。

 

原稿やらなきゃヤバイのに集中力が続かない。
よくありますよね。僕もあります。むしろそういう日しかありません。
そしてその度に「自分はなんてゴミクズ野郎なんだ……」とメンタルを病みます。

 

さすがに病むのにも飽きてきた僕は考えました。
どうすれば集中力って発揮できるんだろう?

 

根性? 気合い? ハート? パッション?
いや僕そういうのはちょっと……。

 

だってそれで解決しないからこんなに悩んでるんです。
そもそも情熱なけりゃ同人活動なんてやりませんよ。
いまさら精神論なんて要らないんです。


というわけで(なるべく)科学的根拠に基づいた方法がないか調べました。
結果、それなりに有用そうな情報を見つけたので、悩める同志に共有します。


以下、3部構成です。さくっと読めるように配慮したつもりです。


Part1.作業前にやってみること

Part2.逆に、やらない方がいいこと

Part3.まとめ

 

Part1.作業前にやってみること

6つ紹介します。


①机の上を片づける。

そもそも集中力が続かない根本原因は2つあるそうです。

第一に、雑念が多い。
第二に、やるべきことに注目できていない。

机の上を片づけるという行為は、

視覚的なノイズ(雑念が起こる原因)を排除しつつ、やるべきことに注目できる環境を作れます。
一石二鳥ですね。コスパがいいです。


何も部屋全体を片づける必要はありません。
作業中に目に入るスペースさえ片づければ、それで十分です。


②ガムを噛む

咀嚼(噛む)という行為には脳を活性化する働きがあるとされています。

集中の度合いを計測する方法のなかに脳波のフラクタル性を用いた感性解析というものがあり、

難しい話は置いときましょう。

メジャーリーガーってガム噛んでますよね。
あれは、ガムを噛むと集中力が上げると科学的に実証されているからです。
集中を要するという意味では野球も原稿も同じです。
この方法はとにかく手軽に試せるのがポイントです。

(参考)
ガム咀嚼による集中への効果について (ニューロコンピューティング)
https://ci.nii.ac.jp/naid/110009822427


③自然音(規則的な音)を流す。

α波というのを聞いたことあるでしょうか?
脳内がクリアなことを示す脳波のことで、
α波が多く出ている状態=集中力を発揮できている状態です。

いいですね。α波ほしいですね。

しかも、α波には右脳の回転を促進してくれる効果もあります。
右脳が回転するということは?
そう、妄想力を高めてくれるってことです。
最高ですね。

さて、この脳波を出すために、何が有効か。
規則的な音を聞くことが有効であると証明されています。
規則的というのがポイントです
ゆえに、虫の声や波の音といった「自然の音」が有効とされています。

ついつい作業用BGMは好きな音楽を流したくなりますが、ここはぐっと堪えましょう。
楽器の音や人の声が聞こえると脳が興奮状態に陥ってしまい、α波の発生が阻害されてしまうためです。


Androidの人はこちらのアプリがおすすめです。

無料なので気軽に試せます。
https://play.google.com/store/apps/details?id=net.relaxio.relaxio&hl=ja

iOSにも似たようなアプリはあると思いますので探してみてください。


ちなみにこのα波は睡眠の質を上げるのにも効果があるようです。
睡眠の悩みがある人にもおすすめです。

(参考)自然音がリラックスできて眠れる理由|1/fゆらぎの癒し効果
https://lettre-du-nature.com/archives/350

 

④目を閉じて自分の呼吸の音に集中する。

いわゆる瞑想というやつですね。

雑念を排除することが目的です。
瞑想って書くとハードルが上がるかもしれませんが、目を閉じて呼吸音に集中するだけでいいです。

やろうと思えばもっと本格的な瞑想方法はあるようですが、それはこだわりたくなったらでいいと思います。

ハードルの低さって大事です。
気合い入れてやらないといけない準備体操なんて、どうせすぐやらなくなりますから。

あくまでも、気楽に!

(参考)※英語です。
https://well.blogs.nytimes.com/2016/02/18/contemplation-therapy/


⑤将来に期待する

ドーパミンというホルモンを分泌させることで、集中力(というかやる気)が上がります。

そしてこのドーパミンを意図的に分泌させる方法はいくつかあるようです。

そのなかでも、将来に期待する(良い未来を思い描く)ことを僕はおすすめします。

だって皆さん、妄想得意でしょう?

 

「イメージするのは常に早期入稿した自分だ」

f:id:Takuetsu_Ayabe:20171221215340p:plain

 

 

⑥紙に雑念を書き出す

集中力が欠ける原因は、余計な情報が脳内にあることだと先に述べました。

その余計な情報を外に出してあげるだけです。

とにかく頭に浮かんだこと、原稿とは関係ないことをひたすら書き出す。

すると、意外と自分の考えてることって大したことないなって思えます。

あとはすっきりした頭で、原稿に向かうだけです。

 

(参考?)綾部卓悦の雑念

f:id:Takuetsu_Ayabe:20171221222924j:plain

(あまりに見苦しい内容のため、雰囲気だけ……)

 

Part2.逆に、やらない方がいいこと

意外に思われるかもしれませんが、『ご褒美』や『危機感』を設定するのは良くないようです。


ご褒美を設定するというのは例えば、『このシーン書き終えたらデザート食べよう』みたいなやつです。

危機感を設定するいうのは要するに、『締切がヤバイ!』という焦りを原動力にすることです。

 

効果ありそうに見えますよね。

実際、『終わらせる』だけなら効果はあるようです。


ではなぜ『やらない方がいい』としたのか。

この方法は、のびのびとした創造性を失うリスクがあるからです。
とにかく作業を終わらせることが目的になってしまい、質を軽視してしまうことに繋がってしまいかねません。

原稿作業の本来の目的は『良い作品を仕上げること』なのに、それでは本末転倒です。
そういう意味で『やらない方がいいこと』と位置づけました。

根拠が知りたい方には、以下の動画をおすすめします。
モチベーションについて説いた不朽の名プレゼンです。
字幕がついてるので英語が苦手でも大丈夫です。

 


モチベーション3.0 ダニエルピンク 『やる気に関するすごい発見!!』

  

ただ、『ご褒美』や『危機感』の設定は何があっても絶対にやめろ!と言いたいわけではありません。
創造性がいらない作業(単純で事務的な作業)に関してなら、有効に作用するようです。

うまく使い分けていきましょう。

 

Part3.まとめ

<作業前にやってみること>

 ・机の上を片づける

 ・ガムを噛む

 ・自然音を流す

 ・自分の呼吸音に意識を向ける

 ・最強の自分をイメージする

 ・雑念を紙の上に吐き出す

 

<やらない方がいいこと>

 ・自分へのご褒美を用意する

 ・自分の首を絞めて危機感を演出する

 

最後になりますが、これらを全部実践する必要はないです。
ひとつかふたつだけやってみるとか、あるいは日によってやることを変えてみても全然いいと思います。

 

というか実際、僕は日によって変えてます。
「今日はこれならできそうかなー」という感じで、気分に任せてます。

 

それでも効果はあるので、肩肘張らず、まずは適当にやればいいんだと思います。
だって所詮は準備運動ですからね。

 

長くなりましたが、以上です。

早期入稿目指してお互いがんばりましょう。


<参考>

http://yagi-coach.com/mindset/syutyuryoku-takameru/

http://xn--88j8d6g0bp6rrb0119c.jp/archives/447

僕は、生身の南條さんが大好きだ。

※・R・i・n・g・ツアーのネタバレを含んでいます。dアニメストアでの配信を楽しみにしている人はご注意下さい。


■僕は、生身の南條さんが大好きだ

……言うまでもなく、南條さんの身体が好きという意味ではない。女性に対してそう断言するのは失礼な話かもしれないが、僕は南條さんに女性的な魅力を求めていない。僕はあくまで南條さんの人生観や人間性に惹かれているということをあらかじめ強調しておく。
fripsideのボーカル』でもなく『○○役の南條愛乃』でもない、生身の『南條愛乃』だけを僕は追いかけている。もちろん他の側面を否定するつもりはない。ただ、僕にとって一番興味があり、趣味が合うのは、生身の南條さんだという話だ。

格好つけていいところでも格好つけない、その自然体なところが好きだ。
僕はとても見栄っ張りで、そんな自分が嫌いになることもよくある。だから南條さんのように自然体・等身大でいる(あるいはそうであるように見せる)ことに憧れているし、それができている南條さんを尊敬している。

‟誰かの気持ち代わりに歌うなんて 大きなことはできないけど 寄り添えるような曲になったら” 

南條さんは楽曲のなかでも等身大だ。すべての曲がそうだとは言えないが、想像ではなく実体験から得た気付きを基に楽曲を仕上げている印象が強い。とある夢を追いかけている僕からすると、これはとんでもなく勇気がもらえる。1stフルアルバム『東京1/3650』などは顕著で、夢に向かって努力していた過去の南條さん自身の心の動きが垣間見える。
――本当にやっていけるのかな。不安だな。でも自分を信じて頑張ろう。そう思ってもうまくいかないことがある。理想とは違うな。諦めようかな。ちょっと距離を置いてみよう。でもいつの間にか、そのことを考えている。やっぱり、だいすきだ。自分を信じて明日からまた頑張ろう。不器用な生き方でもいいじゃない。すこしずつかもしれないけど、きっと、成長できてるよ。
南條さん自身の実体験を伴っているからこそ、これらのメッセージには説得力がある。僕自身、経験したことのある気持ちも多く(というかほとんどがそうだ)、どうしたって共感してしまい、それでいて今の南條さんの活躍を見ていると、自分だって!という気持ちにさせてくれるのだ。

ここで少し自分語りをさせてほしい。ミステリ作家になるのが僕の夢だ。その夢を追い掛けようと決意する一助になってくれたのが、他でもない、南條愛乃さんその人だった。
のぞえりラジオガーデンという伝説の番組がある。僕は狂ったようにそのアーカイブを聞き漁っていた時期があったのだが(というか実際狂っていたと思う)、そのなかで出会ったとある回で、リスナーからこんな質問が届いていた。
‟お二人が声優になってよかったと思うことはなんですか?"
これに対し、南條さんはこう答えた。
‟無駄がなくなった"
どういうこと?と相方である楠田さんから疑問の声が上がる。

南條さん曰く、‟(要約)日常のなかで悲しいことやつらいことを経験しても、それも演技に活かせると思えるようになったから、人生に無駄がなくなった。”

まさに目から鱗だった。声優に限らず、表現の道を追求している限り、決して人生に無駄な瞬間は訪れないのだ。それってなんて素晴らしい人生だろうと思った。僕は貧乏な家庭に育ったためか『無駄なく』とか『効率的に』という考え方が骨の髄まで染み付いている。そのバックボーンも手伝って、南條さんの言葉はとても心に響いた。僕が作家を志そうと思った理由のすべてが南條さんのその言葉だったというわけではないが、僕の人生においてひとつのターニング・ポイントになったのは疑いようがない。

僕が書いたとある同人小説のなかでも、過去にあった悲しい出来事やそのときに感じた暗い気持ちをキャラクターの心情表現に活かすことができた(不出来ではあるが、その挑戦をしたこと自体に価値があると思っている)。そして実践してみてやはり思った。南條さんの言う通りだった、と。人生に無駄がなくなった、と。‟過去は変えられない。でも過去の意味付けは変えられる”とは僕の先輩の言葉だが、この体験を経てようやく腹落ちした。つらい目に遭った事実は変えられないが、その体験に意味を持たせられるかどうかは自分次第なのだ。僕の場合は表現に昇華することで、あらゆる過去を意味のあるものに捉え直すことが可能になった。南條さんが気付かせてくれたこの人生観はきっと、死ぬまで続くだろう。……余談だが、お察しの通り、当ブログのタイトルもこの人生観を反映させたものだ。

声優と作家では表現方法に差異こそあるが、表現者として本質的な部分はやはり共通らしい。だからこそ、僕は思う。南條さんのような、等身大のクリエイターになりたいと。難しい言葉で格好つけたり想像だけで語ることはせず、地に足をつけて、自分の弱さを認め、謙虚に、しかし芯のある言葉と物語を用いて、誰かの心を救いたい。夢中で読み進めていって、最後には気持ちが前を向く。そんな作品を書く。‟書きたい”でも‟書こうと思う”でもなく、‟書く”。この言葉選びが、僕なりの決意表明だ。

自分語りはここまでにする。お目汚し、失礼。


■僕は『可愛さ』を求めない。
南條さんの話に戻ろう。かねてから思っていた、南條さんの魅力に関する疑問を書こうと思う。
「南條さん可愛い!」という声をよく聞く。SNS上でもそうだし、ライブの幕間でもそんな声が飛び交う。同志であるごきんじょさん*1たちに敢えて1つだけ問うとすればこの点だ。南條さんの魅力は果たして『可愛さ』なのだろうか?
いや、別にその価値観を否定したいわけじゃない。ただ、『可愛い』を伝えたり求めたりすることで、南條さんに無理をさせてはいないだろうか、という心配を僕はしている。
idc』では‟本当は可愛いが苦手です 早めに気付いてね”と、『ゼリーな女』では‟期待通り振る舞うとか 実はうまくできるんだ”と歌っている。この2曲のテーマ(モデル)が南條さん自身であることは、収録アルバムのコンセプトからして明らかだ。加えて、今回のツアーでこれら2曲が続けて歌われたことからも、僕はその意味の繋がりを考えてしまう。

“可愛いと言われるのは苦手だけど、君たちが可愛さを求めてるなら可愛く振る舞うよ”

そんな風に南條さんがぼやいている姿を思い浮かべてしまうのは、誇大妄想だろうか。
もちろん商業活動なのでお客さんのニーズに応えることもある程度は必要だ。南條さんに可愛さを求めるあなたの価値観も決して間違いではない。しかし僕はこう考える。南條さんには、ニーズに捉われすぎず、自由な表現を追求して欲しい、と。なぜなら僕はありのままの南條さんが好きだから。
どうも苦言じみた言い方になってしまった。共感してくれとまでは言わないが、そういう考え方もあるかもな、くらいに思っていただけたら幸いだ。


■・R・i・n・g・ツアーの感想
さて、さんざん語ったような気分ではあるが、ここからが主題だ。
3rdフルアルバム『サントロワ∴』を引っ提げて敢行された・R・i・n・g・ツアーの感想である。
このツアーで僕が見聞きした全楽曲それぞれに感じたことはあったが、すべてを書こうとすると熱意が散開してしまうので、特に強く印象に残った楽曲に限定して感想を述べる。

尚、僕が参加したのは静岡・宮城・東京(両日)の合計4公演だ。
それぞれ注目すべき箇所を変えながら楽しんだ。特に最後の”あの曲”は4度とも違う感想を持った。その辺りも絡めて書いていく。

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『逢えなくても』
南條さんの真骨頂はバラード曲であり、バラード曲といえばテーマは恋愛と相場が決まっている(と僕個人は勝手に思っている)が、実は南條愛乃楽曲のなかで真っ直ぐに恋を歌った曲は多くない。その数少ない恋愛ソングのなかでも、この『逢えなくても』という曲は、恋の普遍的な切なさを大人の視点から絶妙に表現している曲だ。大人になっても恋って難しいよね、と説くこの曲はまさに『サントロワ∴』というアルバムのテーマ(”30代の教科書”)に合致した曲と言えるだろう。特に‟大人になれば なるほどに 上手に恋ができると思ってた”という一節は、ある程度の年齢を積み上げてから歌ってこそ、実体感のある重みを持つ。南條さん自身もそれをわかっている節があり、それはつまり自分の年齢をしかと受け止めていることを示す。下手に若作りせず、大人の視点からしか描けないものを素直に表現しようとする南條さんの気取らなさが僕は好きだ。
僕、綾部卓悦(20代・男性)の恋愛経験はせいぜい人並み程度だが、それでも共感できる部分は少なからずあったのと、(言うまでもないが)南條さんの圧倒的な歌唱力が手伝って、思わず涙してしまった。これは『サントロワ∴』全体を通して言えることでもあるのだが、特にこの曲は、30代になってから聞き直すのが非常に楽しみだ。きっと感じることも変わっていることだろう。そのときは、なるべく前向きな感じ方ができていることを祈る。

 

『Recording.』
前半部分でも引用したが、この曲の‟誰かの気持ち 代わりに歌うなんて大きなことは できないけど 寄り添えるような 曲になったら”という歌詞に、南條さんらしさが詰まっていると僕は思う。しかし実を言うと、そう思い至ったのは東京公演2日目に上記フレーズを南條さんが歌い上げたときだった。ここに至ってついに(ああ、この等身大で表現するスタンスがあるから僕は南條さんが好きなんだ)と気付き、泣いた。もうべらぼうに泣いた。この曲で泣くとは思っていなかったので動揺し、直後のクラップでは無様にリズムを外す有り様だった。
この曲にはもうひとつ大好きなフレーズがある。‟どんな曲に 育つのかな”という部分だ。去年の『Nのハコ』ツアーまで遡る話になってしまうが、この曲をパシフィコ横浜で直接聞くまでは(曲って育つものか?)という野暮な感想しか持っていなかった。しかし、さまざまな曲がライブで披露される度、想い出が付与されていく。あるいは曲に込められた想いを知ることで印象が大きく変わったりもする(後述する『螺旋の春』などはまさにそのパターンだった)。こういった感覚に気付いたとき、なるほど、これが“曲が育つ”ということか!と、思わず天を仰ぐような気分になったことを覚えている。
加えて、ライブでしか実現しない南條さんの『あの問いかけ』や『あのコール』も、この曲の魅力に拍車をかけていると思う。何度でもライブで聞きたい、南條さんらしさの詰まった一曲だ。

 

『スキップトラベル』
『サントロワ∴』のなかで僕が一番好きな曲だ。忙しさを理由にして行動しない内に、時間はあっという間に過ぎていく。それじゃあ人生もったいないでしょう。とにかく今だ!と思ったら財布だけ持って一人で出かけてしまおう。きっと新しい自分に出会えるよ。そんな軽やかな気分を爽やかなサウンドに乗せて歌い、足踏みしている背中をそっと押してくれる楽曲。“私が見たい場所はたくさんあって でも後回し 忙しくて行けないよ それじゃいつならいいのかなと 考えてみたときに気づいたの きっと決めなきゃ決まらない”というフレーズは本当にその通りだと思う。友達が少ない僕は割と昔からこのスキップトラベル的なスタンスで生きてきたので、より深く共感できた。
更に言うとこの曲はバンドメンバーもめちゃくちゃ楽しそうな笑顔で弾く。僕は楽しそうに楽器を演奏する人が大好きなので、そこもぐっとくるポイントだ。
話は逸れるが、実はこの曲中にある“両手あけておいて”というフレーズに感化され、僕は本当に両手をあけた状態でライブに臨んだ。要は光り物の類を一切使わなかった。鈍器もといツアーライトを買った方が南條さんは喜ぶだろうとは思ったのだが、南條さんの歌声と僕の身ぶり手振りによるコミュニケーションの間に物を噛ませたくなかったのだ。僕自身の感謝や楽しさを道具に頼らず己の肉体のみで表現したかった、とも言える。何を言っているのかわからないと思うが僕にもわからない。南條さんに伝わっているとは思えないし、自己満足と言われればそれまでなのだが、僕はこの拘りを捨てられなかった。実際、拍手はしやすかったし、体全体で音楽に乗ることに集中できたので、好判断だったと思っている。おすすめはできないが。
尚、更にどうでもいい話なのだが、僕はNツアーのライトと今回のツアーライトが凶器となるミステリ小説を書こうとしたことがある。伝わる人が非常に限られる上にごきんじょるの友の会から怒られそうなので、断腸の思いでプロットごと闇に葬った。

 

番外編『バンドパフォーマンス』
演出の都合上、『スキップトラベル』から『一切は物語』までに着替えを挟む必要があり、有り体に言ってしまえばそのための時間稼ぎに当てられているのが、このパフォーマンスだ。中にはこれを休憩時間と捉えていた人もいるかもしれないが、僕からすれば‟これを楽しまないなんて、そんなもったいないことできるわけないだろう!”と叫びたくなるぐらい素晴らしいパフォーマンスだった。南條さんの歌だけに留まらず、こんなに格好良くて熱い演奏まで楽しめるなんて、贅沢にもほどがあるだろうと本気で思った。今回のパフォーマンスは、ロック・ジャズのテイストで進行された。アルバムのテーマに合わせて‟大人感”を表現しようとしたのだと思う。もしも本当にその意図だったなら、見事に大人の恰好良さにあてられた人間が少なくともここに1人いるので、大成功と言って差し支えないだろう。
ちなみに僕は南條愛乃バンドのメンバーが全員大好きだが、敢えて一人だけ選ぶならギターの星野さんを推す。まず、顔がいい。顔がいいので、弾いてるときは当たり前のように格好良い(僕が女性だったら確実に惚れていた)。その上、演奏していないときの立ち姿まで格好良い。自分の出番ではないときは直立不動で影に徹する姿に、プロとしての美学が見える。そして口を開けばすこし天然が入った緩い性格が見える。ギャップがずるい。アーティストとしても人間としても魅力的すぎて気軽にほっしーなんて呼べない。呼ぶけど。

 

『pledge』
少なくとも静岡と宮城ではこの曲のイントロでコールが入ることはなかったと記憶しているのだが、東京公演でついにボルテージが最高潮に至ったごきんじょさんたちが、熱気溢れるコールを響かせた。もちろん僕も例外ではなかったのだが、熱狂の最中、ある意味ではこれも『曲が育つ』だなとぼんやり考えていたことを覚えている。
しかしこの曲はとんでもなく格好良い。失礼な話かもしれないが、この曲において僕の視線はほぼずっとバンドメンバーとダンサーに注がれていて、南條さんの姿はほとんど記憶にない。それほど、パフォーマンスが格好良かった。星野さんの鋭利なギターサウンドと北村さんのパワフルなベースサウンドが会場を暴れ巡り、それを追い立てるような八木さんの豪快なドラムサウンド、その中に秩序をもたらす森藤さんの繊細なピアノサウンド(これぞバンマスの在るべき姿!)、そして可憐さと情熱を注ぐYUIMaiMai両名のダンス!これで盛り上がらないわけがない。これからもライブでの定番になってほしい、最高のアッパーソングだった。
話は逸れるが(逸れてばかりだな)、コールのことに少し触れたので書き残しておく。各方面で散々言われているように、ごきんじょさんたちは本当にマナーが良い。コールという面においては静寂に合わせて叫ぶなんてもっての他、歌詞に被るところでは一切コールをしないし、盛り上がるべきところではしっかり盛り上がる。MCの合間にも妙な野次を入れたりもしない。マナーを気にしすぎて南條さんの煽りに乗り切れない瞬間があるのは少しもったいない気もするが、僕はごきんじょさんたちの秩序を重んじるスタンスがとても好きだ。この客層の良さも、南條さんを応援し続けられる理由のひとつであることは間違いない。

 

一切は物語
舞台演出が特に素晴らしかった。曲調のギャップが大きいという意味で曲自体のインパクトも強かったが、個人的にはこの曲の舞台演出、そのなかでも光線演出が強く脳裏に刻まれている。静岡公演では運良くステージ真正面の席だったのだが、この曲を最大限楽しめるポジションだったと思っている。ボーカルが終わり、厳かなアウトロと共に空間を撫で上げる青い光線。それらが曲の終わりと同時にぴたりと三角形を縁取った瞬間、これは息をのまずにいられなかった。青で縁取られた赤い三角形の中央に凛と佇む黒いドレス姿のシルエット。今でも鮮明に思い出せる。
そしてこの曲は最終日のサプライズもすごかった。それまでの公演で先入観がついていたからか、やなぎなぎさんが登場する可能性を微塵も考えていなかった。そしてこの時、僕はなぜか泣いた。僕にとっては涙を誘うような曲ではないので不思議だったのだが、今になって思うと、ゲスト登場にびっくりしすぎて泣いたのだと思う。子供か。

 

『ほんとはね。』
カバー曲の話をする。正直なところ、『サントロワ∴』の特典CDの楽曲リストを初めて見たときは、がっかりした。知っている曲がひとつしかなかった上、その唯一知っていた曲もいかにも30代向けで、20代の身としては素直に喜べなかった。『Nのハコ』の特典カバーCDが良かっただけに、余計に落胆の度合いは大きく感じた。
しかし、今回のツアーでこの曲を生で聞いたとき、その認識は完全に覆された。
特筆すべきはやはりラストを飾るハイトーンだろう。これが、本当にもう、言葉にできない美しさだった。作家を目指している身としては悔しいが、あのハイトーンの美しさを適切に文章化する実力がまだ僕にはない。しかし恥を捨てて意地を通すならば、"澄みきった青空へ高く抜けていく一条の銀の光"とでも喩えようか。…うわあ、恥ずかしい。小説的な表現をブログで使うのは、酔った勢いで語るべきことを素面で語ってしまったときのような気恥ずかしさがある。何も見なかったことにしてほしい。
話を戻そう。この曲で顕著に現出した南條さんの圧倒的な歌唱力そのものに泣かされたのは、きっと僕だけではないと思う。万が一、この音源を聴いたことがない読者がいたら、そのまま一生手を出さないことをおすすめする。1度でも聴いてしまえばきっと、生で聴きたかったと強く後悔してしまうだろうから。

 

『だいすき』
夢を追う人間にこれほど刺さる曲もなかなかないだろう。僕自身、小説を書くことに向いていないと思うことは多々ある。理想と現実のギャップに苛まれたり、他人の作品と比較してしまう自分が嫌いになって、実際に小説から距離を置いた時間だって少なくない。しかしそれでも、自然と小説のことを考えてしまっている自分にふと気付く。そんな経験を経て、やぱり僕は小説が『だいすき』なんだなあと確信を深めていった。こういった心の動きを今こうして言葉にできるのは、間違いなくこの曲に出会ったからだ。
心が折れそうになったとき、この曲を通して南條さんに“悩んで 立ち止まっても また頑張るんでしょ?”と問われると、僕は何も言わずに頷くほかない。メンタルが病みそうになったときにやさしく背中を押してくれる、僕にとってとても大切な曲だ。今回、再び生歌を聞けて、その想いは一層強くなった。

 

『螺旋の春』
ツアーを経て大好きになった曲だ。初めて触れたときは曲に込められた意味を感じ取れず、まあ普通のバラードだなくらいに思っていた。あの頃の自分を殴りたい。
僭越ながら、南條さんの口から語られたこの曲の解説の要約を以下に書き起こしてみる。(僕自身の解釈が多分に含まれているが、概ねは合っていると思う)
“――生きていると、何度も同じようなことで悩むこともあるだろう。その度に、ああ、また同じことで悩んでる。本当に成長しないな、自分。そんな風に考えてしまいがちだが、少し視点を変えてみよう。上から見れば同じところをぐるぐる回っているだけに見えるかもしれないが、横から見ればどうだろう。同じことで悩んでいると感じても、もしかしたら螺旋のように少しずつ上昇しているかもしれない。春を迎える度に逞しくなっていく梢のように、実は少しずつ成長できているかもしれない。だから、少しだけ自分を肯定してあげてもいいんじゃない?”
以上のような解説を経て、僕の中でこの曲は完全に化けた。なんて斬新で、やさしく、嫌みのないメッセージだろう。寄り添うような曲とはまさにこんな曲を指すのだろうと、僕は認識を改めた。『Recording.』の節でも述べたが、こういった変化もまた、曲が育つということなのだろう。
素晴らしい作詞・作曲をしてくださった橋本由香利さんに最大級の敬意を表したい。もちろん、それに共感し、丁寧に歌い上げてくださった南條さんにも。

 

番外編『アンコール』
ここでは、南條さんとまったく関係ないことを話そうと思う。今回のライブツアーを経て僕自身が僅かばかり成長できたことについてだ。一歩踏み出す勇気を出せた、という話になる。
断言しておくが、これは僕以外の人間にとっては極めてどうでもいいことだ。故に読み飛ばしていただいて一向に構わない。
ツアー最終日のことだ。ステージから演者が捌けて、アンコールが会場に響く最中、僕は怖じ気づいていた。というのも、僕はアンコール!と叫びたいのに、それをしにくい雰囲気だったからだ。僕の席の周りには偶然にも物静かなごきんじょさんたちが固まっていて、拍手で意思表示はしているものの、大声でアンコールを叫ぶような人はいなかった。僕は単番で参加したので近くに知り合いもおらず、ひとりで悶々としていた。声に出してアンコールを求めたい。自分の喉を震わせて気持ちを表現したい。でも、周りは誰も声を出していないので、ここでいきなり大きな声をだしたら浮くだろう。それが怖かった。周りの視線を気にしてしまっていた。悩んでいる間にも時間は過ぎていく。もしかしたら次の瞬間には演者が戻ってきてアンコールは途切れてしまうかもしれない。もういいかな。どうせ自分の中の問題だし。そう諦めかけたとき、ふと思った。周りの雰囲気に負けて自分のやりたいことをしなかったら、これは今回のツアーに後悔を残すことになる。それは嫌だ。自分の意気地がないせいで南條さんのパフォーマンスに泥を塗るような感じがする(勘違い甚だしいのだが、このときは本気でそう思った)し、それって南條さんに対して失礼じゃないか。そう考えた次の瞬間、声が出ていた。
繰り返すが、他者からすれば本当に些末なことだと思う。アンコールの声を上げる人間がひとり増えただけの小さな変化だ。でも、僕にとっては違う。周りの雰囲気に流されずに一歩踏み出せたことは、気弱な僕にとって、大きな変化だった。そんな機会をくれた南條さんに、感謝の念は深まるばかりだ。

 

『だから、ありがとう』
この曲について語ることはあまり多くない。僕はただひたすらに”こちらこそありがとうございます”の精神で耳を傾けていた。しかし最終日だけは少し違っていた。”こちらこそ”精神が高まった果てに、思わず南條さんと一緒にこの曲を歌いたくなってしまったのだ。もちろん実際にそんなことはしていない。体ではひたすら聞き入っていた。その代わり、心のなかで歌った。南條さんが僕たちへの感謝を歌うように、こちらからも感謝を歌い返したかった。心のなかで歌うだけでは何も伝わらないのは重々承知だが、そうしないわけにはいかなかった。僕と同じように考えていた人はどの会場にも少なからずいただろうと、根拠なく確信している。

 

『・R・i・n・g・』
さて、いよいよ最後の曲だ。この曲を語らないわけにはいかない。先にも触れたが、この曲に関しては4公演とも違う箇所に着目し、違う感想を持った。
まず静岡公演。これはもうひたすら楽しかったの一言に尽きる。公演前は聞いたら泣くかもしれないと思っていただけに、意外だった。実は静岡公演当日、諸事情から携帯すら持たずに某所をひとりきりで観光する機会に恵まれた。狙ったわけではないのだが、本当に誰とも繋がっていない(つまり、縁のない)状態というのを久しぶりに体験したため、それから聞くこの曲はどんな感じ方をするのだろう…とセンチメンタルな気分で会場に足を運んだことを覚えている。しかし結論は既に述べた通り、楽しかったの一言である。ごちゃごちゃ考える余裕がないくらい、南條さんの世界観に引き込まれたということにしておきたい。
次の宮城公演では着目する点を変えた。そして号泣した。間奏の演出でのことだった。静岡公演では、三角形のスクリーンに次々に映し出されるファンからのメッセージフォトに視線を奪われていて、(ああ、南條さんは本当に愛されてるなあ……)とあたかかい気持ちで胸が満たされていた。しかしこの宮城公演では、少し視線を下げて、南條さんの背中を見ていた。南條さんは特別な行動をしていたわけではない。リズムに乗りながら三角形のスクリーンを見上げていただけだ。その背中を見て、僕は泣いた。理由は、ファンの想いはきちんと伝わるんだと安心できたからだと思う。もちろん南條さんはファンのメッセージを受け取っていないんじゃないか?と疑っているわけではない。ちゃんと受け止めてくれるひとだと思っている。ただ、やはり芸能人がいちファンの想いに対して大っぴらに反応するわけにもいかないのがこの世の中の窮屈なところだ。だからファンの想いはこっそり見えないところで本人の手に届く。しかし、見えないものはなかなか信じにくい。本当に伝わっているのだろうか、と不安になることがないと言えば嘘になる。しかし南條さんはステージの演出としてファンからのメッセージを用いることで、ちゃんと見てるよ、伝わってるよ、と僕たちの目の前で大っぴらに示してくれたのだ。ステージという巨大な仕掛けを用いて、最後の曲という大事な局面を消費して、僕たちとの繋がりを表現してくれた。なんて斬新なんだろう。なんて優しいんだろう。なんて南條さんらしいんだろう。そんな想いで胸がいっぱいになり、涙が止まらなくなった。
3度目。東京公演1日目。この回は寂しさが勝った。直前のMCで南條さんから語られた内容が直結したのだと思う。もうあと1回でツアーファイナルを飾るこの曲は聞けないんだと考えてしまい、ただただ刻み込むように聞いていた。涙こそ流さなかったが、染み入るような気持ちだった。
そして最終日。まさに集大成とでも言おうか、これまでの3公演で感じたことをすべてミックスした感情が胸に去来した。泣きながら笑う、という体験をしたのは生まれて初めてだった。ピークはやはり間奏部分で、心の底から楽しんで笑顔を浮かべ、同時に、感動と寂しさで号泣した。酷い顔をしていたはずだ。曲終盤の「絶対?」に対してのレスポンスは、心のなかでは「たのしー!」だったが実際は「ダノビィィヴォォォ!!!!」みたいな声を出していたと思う。酷い。本当に酷い体たらくだ。しかしあれほどの、名付けがたい感情の渦を経験できたのは、間違いなく僕の財産になる。
実は僕にとって同一アーティストのツアー公演に4度も足を運ぶ経験は初めてだった。正直、同じ公演を何度も聞く意味がわかっていなかった。しかし今回でようやく、その意味を理解した。仮にセトリがまったく同じだったとしても、ステージ演出という大量の情報があるため、着目するところを変えれば何度でも楽しめるのだ。CDで聴くだけでは得られない楽しみ方がそこにある。そういった新しい発見も、今回のツアーで得ることができた。たくさん笑って、たくさん泣いて、たくさん考えた。本当に良いライブツアーだった。


■結局、僕はこう言いたい。
長くなってしまった。

最後に、僕がこの記事で言いたかったことを列挙し、結びとする。

 

僕は、生身の南條さんが大好きだ。
気取らないところが大好きだ。
ステージと客席との垣根を作らない姿勢が大好きだ。
幅広い表現力が大好きだ。
圧倒的な歌唱力が大好きだ。
そして、血の通った言葉で、生き方のヒントを与えてくれるから大好きだ。

故に僕はこれからも、肩書きや役柄を被っていない、生身の南條さんを応援し続ける。

 

以上だ。
こんな長文を最後まで読んでくださったあなたはとてもやさしい人だと思う。
だから、あなたにも、ありがとう。

*1:南條愛乃ファンの通称。ファンクラブ名『ごきんじょるの友の会』に由来する

なんとなくAqoursを楽しめない

<前提>
μ'sとAqoursについて3次元的な動きも含めてある程度知っている読者層を想定しています。
 
 
なんとなくAqoursを楽しめない。
 
最近、これで煩悶としていました。
 
決してAqoursを嫌いになったわけではありません。
名古屋も神戸もLVで参加しました。埼玉も参加します。冬にはファンミも行きます。
 
でも、何かが胸に詰まっていて、楽しみきれていない自分がいる。
 
その原因はいったい何だろう。
考えて、いくつか思い当たったことがありました。
今回はそれを吐き出します。
 
 
■あくまでも綺麗なのは小宮さんでしかなかった。
 
鬱念を抱いたきっかけはHPTT初日のLVです。
 
G線上のシンデレラ、とても良かったですね。
顔立ちや長い手足が映える深紅のドレス。恐ろしく似合っていました。嘆息するくらい。
ダイヤさん推しというのもあり、パフォーマンス中はずっと小宮さんに見惚れてしまいました。
 
ですが、心酔の一方でふと感じてしまいました。
小宮さんは文句なしに綺麗だ。
でも、あそこにダイヤさんはいない、と。
 
それからいくら意識しても、次元の異なる2人の姿を重ねることはできませんでした。
他のキャストについても同様です。
 
次第に、キャラクターが表面的にしか存在しないという感覚が芽生えてきました。
ステージにいるのは「18人」ではなくあくまでも「9人の代役を果たす9人」だな、と。
 
ライブ後にタイムラインで感想を追っていても、ほとんど誰もキャラクターの名前を出していない
そういった気付きも手伝って、その感覚はより強くなっていきました。
 
理由を考えました。
・単に時間の積み重ねが足りない。
・公式による声優先行の展開が影響している。
・アニメの放送がない時期だった。
 
それなりに妥当性はあると思います。
ただ、いくら理性で納得しようとしても腑に落ちませんでした。
後から考えると、これらは確かに要素ではありましたが、真因ではなかったからです。
 
 
■比較は避けられなかった。
 
立ち返って考えました。ラブライブって、何が良いんだっけ。
 
キャストとキャラクターがシンクロするパフォーマンス。
その点は間違いなくラブライブの魅力のひとつですし、ライブでも確かに成されていました。
 
それなのに、どうしてステージ上にキャラクターの存在を感じられなかったのか。
 
思考はどうしてもμ'sとの比較へと向かいます。
 
パフォーマンスのクオリティが低かった?
否、むしろ先代よりも難しいことに挑戦し、尚且つ結果を出している。
 
キャストの想いが不足している?
それも断じて違う。
「一緒に」「ひとつに」といったスタンスの差は個々あれど、全員が真剣にキャラクターと向き合っている。
 
あれも違う、これも違う。
考えて考えて、やはりこれしかないと思い至りました。
 
2次元と3次元の物語がシンクロしていたか、という相違です。
 
 
■僕にとっての2.5次元に必要なのは、統一感だった。
 
μ'sはアニメの内容と現実が重なっていました
メンバーもグループも本当に小さなところから始まり、やがて夢の大舞台に辿り着く。
そのストリームが2次元でも3次元でも実現していた。
それを指して僕は『奇跡』を目撃したように感じていました。
 
次元を超越した物語的シンクロが存在した。
ゆえにキャストとキャラクターが人生を共有しているように感じられた。
キャストの人生がキャラクターに血肉を与え、ひとりの人間として成立させたかのように感じられた。
だからこそ、ステージの上でも彼女たちが重なって見えた。
 
ここで重要なのは、グループというマクロな視点においてもそれが同じだったということです。
キャストの物語とキャラクターの物語がシンクロし、尚且つ、もっと大きな枠組み――即ちμ'sというグループの物語として見ても、2次元と3次元がシンクロしていた。
キャストとキャラクターだけの繋がりじゃない、より立体的なシンクロがあった。
だからこそ、ラブライブというコンテンツ全体が織り成す物語に違和感なく没入できた。
 
つまり、僕にとってはメンバーとグループの物語が統一的にシンクロしている点が重要だった。
ここに至り、ようやくそのことを自覚しました。
 
■期待の仕方が間違っていた。
 
同じラブライブコンテンツなのだから、Aqoursも2次元と3次元が物語的にリンクしている。
そう思い込もうとしていた節は、僕自身ありました。
 
ですが、事実として、3次元のAqoursは田舎の片隅で生まれたグループではありません。
始動の時点で、グループ(コンテンツ)としては華々しい道筋が用意されていました。
この点が2次元の物語とは大きく食い違っている。
 
メンバーとキャストの視点に立てば話は別かもしれません。
目立ったキャリアがないところから、1stライブで横浜アリーナを埋めるほどの力を持ったコンテンツを背負う。
重圧は凄絶を極めたでしょう。
ゼロからイチに至るまで、幾多もの挫折を乗り越えたのでしょう。
 
しかし、メンバーというミクロな視点と、グループというマクロな視点は別物です。
高海千歌』と『伊波杏樹』の物語はシンクロしているかもしれないけれど、『2次元Aqours』と『3次元Aqours』の物語はシンクロしていない。
先程述べたように、グループ視点では始動時点における環境がまったく異なっているからです。
 
この相違が原因で、Aqoursを取り巻く物語全体の統一感が損なわれている。
統一感の欠如が無意識下で障壁となり、Aqoursの物語への没入を許さなかった。
ひいては、ステージ上にキャラクターの存在を感じ取れなかったことに繋がった。
そういうことだったのだと思います。 
 
もちろんAqoursに責任はありません。
期待する側が100%間違っている。これはそういう問題です。
 
僕は何も考えずに期待してしまっていた。
統一感への拘りを棄てきれず、あまつさえそれを幻視し、強引にAqoursに当てはめようとしていた。
 
その歪みこそが鬱念の真因だったのだと思います。
 
■μ'sコンテンツを増やして欲しいかといえば、答えはノーである。
 
脇道に逸れますが、この辺りは誤解されがちな問題なので補足しておきます。
Aqoursはμ's と違う。だからμ's を復活させろ。そんなことはまったく考えていません。
 
理屈と感情の両面から納得しているからです。
 
①ビジネス的な理由
選択と集中。これに尽きます。
大前提ですが、いくら儲かっていようとコストは限られています。
そして消費者の視線をμ'sとAqoursに散らしてしまうのはロイヤルティの形成戦略としてあまりよくない。
ゆえに投資をAqoursに偏重するのは合理的です。
 
もちろんμ'sコンテンツにも需要はあります。
ただ、冷ややかな言い方ではありますが、その需要が拡大する可能性は低いでしょう。
3次元の活動が継続していない以上、どうしても推進力は落ちてしまいますから。
 
コストとリターンが見合わない。だからリソースを割かない。シンプルな理屈です。
 
②感情的な理由
これは僕自身の感覚の話です。
μ'sの物語はもう区切りがついている。
『μ'sはこれからも続いていく』というのはコンテンツとして継続するという意味ではなく、心のなかに在り続けるという気持ちの問題だと僕は捉えています。
 
以上のように折り合いをつけているので、僕はμ'sコンテンツの展開を望んでいません。
 
 
■プロとしての自覚を求めるべきか否か。
 
これも脇道です。
 
繰り返しますがAqoursのことは好きです。
ただ、好きだから全肯定というのは性に合いません。それは思考停止であり、盲信だと思っています。
 
2人ほど、悪い意味で気になった人がいます。
 
①逢田さん
名古屋の1日目でも神戸の1日目でもミスをしていました。
1stのときに伊波さんが『ライブだから!』とフォローしていたのを思い出します。
確かに、想定外のアクシデントも含めてライブという考え方もあるでしょう。
 
ただ、プロなんだから基本的に失敗は許されない。
それを笑って誤魔化してはいけない。それは開き直りです。
心の中では猛省していて、でもファンの前で暗い顔を見せてはいけないと思った末の言動かもしれない。
だから態度を批判するつもりはありません。
しかし、これからも『ライブだから!』を免罪符にしてしまうのではないか、と不安に思ったのも事実です。
 
1stの後にインスタに投稿していたメッセージがとても好きなんです。
みんなは、最高のパフォーマンスだったよ!とか感動した!って言葉を沢山くれたけど、失敗は失敗。プロとしてステージに立たせて貰ってる以上失格です。本当に反省しています。
この一文から、ただ可愛いだけじゃなくてきちんとプロ意識とストイックさを持っている人なんだと尊敬の念を抱いたんです。
 
それなのに、毎回のようにミスをしているようでは、あれは表面的な言葉だったのかと疑わざるを得ません。
 
 
②諏訪さん
ツアー初日、喉の調子が悪かったそうです。
コンディションを調節して、今のベストを出すのもプロの仕事。
そう言われる一方で、期待に応えたい、期待以上の成果を出したいという気概もあって然るべき。
 
どちらもわかるんです。
ただ僕は、無理してる姿を晒さないで欲しかった。
 
お遊戯会を見に行ってるのではないので、クオリティの高さももちろん必要です。
ただそれよりも、僕は演者が楽しくパフォーマンスする姿を見たい。
 
好きだからこそ、無理をしてる姿なんて見たくない。
ファンなら誰しも願うことじゃないでしょうか。
そういったファン心理を諏訪さんは理解していたのか、という疑問が残りました。
 
 
まだ3年目なんだから発展途上で当たり前。その成長を楽しもう。
そういう考え方もわかります。
わかるだけに、結論は出せていません。
彼女たちにプロとしての自覚を求めて良いのか。あるいはどこまで求めるべきなのか。
 
 
■声優主体の展開は悪なのか。
 
ついでなので声優の話をもう少し続けます。
ステージにいるのは18人じゃなくて、9人の代役を果たす9人でしかない。
思えばこの感覚は1stのときから持っていました。
 
では、その原因は果たしてグループにおける物語的なシンクロの欠如だけなのでしょうか。
それが真因であるとは思っていますが、すべてではないと思っています。
 
先にも少し触れた、声優が先行している公式展開の影響も大きいでしょう。
声優を押し出すことで、キャラクターはどうしても半歩後ろに下がってしまう。
僕がG線上のシンデレラのパフォーマンスを見て感じたのはそういう一面だったのではと思います。
2次元と3次元のシンクロを楽しむコンテンツにおいて、その感覚は違和でしかありません。
 
では、公式は悪なのか?
今のやり方はコンテンツのコア・コンピタンスを崩壊させているのか?
 
そうとも言いきれないのです。 
 
 
■Next Step Projectの目的がなんとなく見えてきた。
 
Aqoursは1stライブ以降の動きを『Next Step Project』と謳っています。
しかし、その目的が具体的に示されたことはありません。(あったらごめんなさい)
 
では、今のStepでは何を目的としているのか。
何を達成すればNext Step Projectは完了するのか。
 
以下の記事の一部ではこう言及しています。
「Next Step!」は「出逢い」「身近に感じる」といったものがテーマとして存在しているのでは、ということ。』(掲載許諾済み)
 
こちらの記事の軸はこの言及と別にあるとは思うのですが、僕は上記一文を読んで納得したんです。
『出逢い』をキーワードにしてファンとの接点を増やしていく。
『会いにきてくれる』という期待を高めてロイヤルティを形成していく。
これらもきっと正しい戦略なのでしょう。
 
一方で、僕は別の可能性も考えました。
キャスト自身のレベルアップも目的のひとつではないか、と。
 
2.5次元コンテンツ市場をざっと見ていてもパフォーマンスのレベルは底上げされています。
それに伴い、消費者の期待値も上がっています。
ハイクオリティなパフォーマンスを担保しなければ、そもそもコンテンツとして生き残れないでしょう。
 
ゆえに、キャストのレベル上げ期間として『Next Step Project』が設定されている。
過密にも見えるライブスケジュールからしても、そんな気がするのです。
 
ならばキャスト自身が積極的に前に出て生のリアクションを吸収していくのは自明であり、悪と断じることはできない。
ただの声優コンテンツに収まらないラブライブらしさを出していくのは、更に次のStepでの話である。
今回の鬱念を起点に、願望も込めて、僕はそう結論付けました。
 
蛇足ですが、声優を先行させる展開を感覚的に受用できるか否かが何に起因するのかも興味深いところです。
個人的には、『性別の違い』『性欲の強弱』『恋人の有無』などに相関があると睨んでいます。
要はキャストを疑似恋愛対象として見るか否かという話なのですが、根拠に乏しいのでここでは掘り下げません。
 
 
■結局、Aqoursの独自性とは何か。
 
本筋に戻ります。
 
ライブパフォーマンスという面だけを切り取ると、別にラブライブである必要はない。
それが今の僕が持っている結論です。
 
敢えて名前を出すことはしませんが、他の2.5次元コンテンツにおいてもパフォーマンスや楽曲は魅力的です。
キャラクターと真剣に向き合い、ステージ上で再現しようとするスタンスも、Aqours固有のものではありません。
 
では、Aqoursだけが持っている価値とはなにか。
 
考えるまでもなく沼津という土地に行き着きます
界隈を見ていても、Aqoursほどある現実世界の一地域と密接に関わっているコンテンツは他にありません。
ということはこの点こそAqoursの独自性であり、本質的な価値の在り処のように思えてきます。
 
沼津という土地で起きるムーブメントやそれを起点とした文化や人々との交流。
そういった、一見すると副次的な産物と思えるものにこそ、Aqoursの本質があるのかもしれません。
 
沼津を知らずして、Aqoursの本当の魅力を知ったとは言えない。
そう断言してもいいとさえ、今の僕は考えています。
 
 
■期待の質を変えていく。
 
最後になります。
キャストとキャラクターのシンクロも確かにラブライブの魅力のひとつです。
けれど、先に述べた理由から、僕はそこに期待しすぎないようにします。
 
もちろんキャストの頑張りを否定するつもりはありません。
2.5次元アイドルというコンテンツである以上、それはそれで間違いなく尊い価値のあるものだと思います。
 
ただ僕は、どうせならAqoursならではの楽しみ方を追及したい。 
鍵は沼津という土地にあるはずです。
 
明確な答えはまだ見えていません。
そもそも、述べてきた考えが間違いである可能性も多分にあります。
それを確かめるために、これからも沼津や各種イベントに足を運びたいと思います。
 
どんな風に沼津を変えてくれるだろう。
沼津を通じて、僕たちにどんな出逢いや感慨をもたらしてくれるだろう。
 
そういう期待の変質を肚に落とし込んだ上で、これからもAqoursを応援しようと思います。
 
以上です。

内浦ふしぎ発見

ダイヤさんの実家のモデルである『大川家』

そして、雑誌『DIVER』の企画で伊波さん、逢田さん、諏訪さんが訪れた『海のステージ』

 

6月頭に伺った上記2つのスポットで、僕はミステリーの気配を感知しました。

 

■File1.消えた朱印状

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まずはダイヤさんの実家のモデルとなった大川家です。

史跡としては長屋門と呼ばれる部分だけで、それより中はあくまで一般の民家です。

もう本当に民家。足を踏み入れた途端に通報されないか不安になるくらい民家です。

 

今回の旅の目的は(後付けながらも)執筆中の長編のための取材としていたのですが、

さすがにこの雰囲気では、上がらせていただくのは難しいかなと思っていました。


しかし、成果なしでは帰れない。

そんな想いが僕の背中を押します。

 

少し敷地に踏み込んだ後、勇気を出して「ごめんください!」と呼び掛けると、奥から

和やかな表情をしたご婦人が姿を現しました。

挨拶を交わし、僕は「このお宅がラブライブというアニメの舞台になっていると聞いて

やってきました」…と伝えようとしたのですが、「ラブライブ」の「ラブ」くらいまで

口に出したところで、奥様は合点がいったという様子で微笑み、玄関の方へどうぞとお

っしゃってくださいました。

 

やけに慣れた応対だと感じたのですが、玄関を開けると得心しました。

驚いたことに、いわゆる「祭壇」が目に飛び込んできたのです。


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各種グッズや降幡さんのサイン、更には交流ノートまで置いてありました。歓迎ムード全開じゃねーか!

 

さておき。

広間に上がらせていただくと、すぐに見覚えのある光景でした。


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ダイヤさん推しの僕としてはついつい呼吸が深くなりましたね。(意味深)

 

奥様はサンシャインに関することを積極的にお話してくれました。

この広間が何話のどのシーンに出てきたかがまとめられた資料(ファンの方が作って寄

贈してくれたそうです)を交えながらの説明や、アニメスタッフによるロケハンの状況

や、フォトジェニックという雑誌の撮影で降幡さんがいらっしゃった時のことなど…。

思わず目的を忘れそうになるくらい、楽しいお話を聞かせてくださいました。

 

もちろんそれはそれで興味深かったのですが、僕がここに来訪したのは、黒澤家のモデ

ルとなった一族の歩みを知るためです。

 

ラブライブトークもそこそこに、不躾ながらも「実は網元の歴史にも興味があって…」

と切り出しました。

 

切り出した瞬間、奥様の顔付きが少しだけ真剣味を帯びた気がしました。

思わず僕もうわついた思考を棄て、背筋を伸ばします。

 

奥様は貴重な資料を交えながら親切に網元の歴史を教えてくださいました。


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ただ、ここでその詳細を述べることはしません。

僕自身、語れるほど調べてきれていないというのと、既によくまとめられた記事があるからです。

ぜひこちらも読んでみて下さい。

(リンク掲載の許可はいただいております)

tegi.hatenablog.com

 

さて、ばっさり要約します。

大川家は内浦という土地の権力者でした。

その関係で、行政とも権利書や命令書をやりとりしていたと、奥様に教えていただきました。

 

そして、その政府とのやり取りに使われた文書が、大川家には多く保存されていました。

これを発見したのは渋沢敬三という人物ですが、この人物の詳細は先に紹介したブログ

内に詳しく記載されているので割愛します。

 

それらの文書の中に『朱印状』というものがあったそうです。

土地の権利書のような書類と考えていただけると分かりやすいかと思います。

 

さて、大川家には全部で17枚の朱印状が保存されていたのですが、僕はこれらの文書に

ミステリーの気配を察知したのです。

 

この朱印状が発見されたのは昭和初期のことなのですが、これらの原本は国の保管施設

に移送されることになりました。

内浦の漁業史を分析する上での大変貴重な資料ですから、当然の措置といえます。

 

しかし、移送の際に、あるトラブルが起きてしまいました。

 

17枚の内の1枚が、消失したというのです。

 

移送が行われたのは昭和初期。

なるほど、時代も時代ですから、今ほど厳密な管理ではなかったかもしれません。

紛失なり盗難なりという可能性は充分に有り得るでしょう。

しかし僕はこの話を聞いたとき、違和感を覚えずにはいられませんでした。

 

――なぜ、1枚だけなのでしょう?

 

常識的に考えれば、形も紙質も同じ17枚の書類を、個別に管理していたとは思えません。

そして、17枚をひとつの束にまとめて管理していたのであれば、紛失なり盗難なりに遭

ったとしても、それらは一蓮托生の関係であったと考えるのが自然ではないでしょう

か?

 

しかし、実際に消えたのは1枚だけ。ここに推測と事実の齟齬があります。

 

僕は訝しみました。

朱印状の消失には、何者かの作為があったのではないか、と。

作為があったということは、動機があった。

17枚の内から1枚だけを抜き取った動機とは何か。

失くなった1枚に何か特別な付加価値があったのではないか。

では、その付加価値とは何か…。

 

奥様はこれに関するとある事実を話してくださいました。

即ち、失くなった1枚を含めた17枚の複写(コピー)は、今もなお大川家に現存すると

いう事実です。

 

残念ながら、17枚のどれが消えた1枚なのかは分からないとのことでした。

なので朱印状の内容から動機を推測することはできません。

 

しかし重要なのは、複写が残っているという事実です。

複写があるということは、朱印状の内容は現存しています。犯人が、朱印状に書かれた

内容を葬りたかったのであれば、詰めが甘かったということになります。

 

しかし、犯人の意図が別にあったとしたら?

 

原本であることに価値があったのか。

紙そのものに何らかの仕掛けが施されていたのか。

1枚だけが消えるというシチュエーションそのものを欲したのか…。

 

考えれば考えるほど、想像が広がっていきます。

 

もちろん、事実としては単純に1枚だけ束から抜け落ちたとか、ありきたりなことかも

しれません。

ですが、そういった謎の気配を捉えて想像を膨らませてしまうのが、ミステリファンの

悲しき性なのでしょう。

これが、内浦で出会ったひとつめのミステリーです。

 

■File2.スカンジナビア号の謎

まずはこちらをご覧ください。
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立派な船の模型です。


実はこの船、つい10年ほど前には実際に内浦の海に錨を下ろしていたのです。

名をスカンジナビア号といいます。


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(浮かんでいたのは、なんと長井崎中学校のすぐ近く!)


かの船が内浦にやってきた経緯は省きますが、長きに渡り海上レストランとして稼働し

ていました。

しかし、バブル崩壊を契機に経営は傾き、やがて海上レストランとしての営業を断念す

る運びとなってしまいました。

 

その後はスカンジナビア号を内浦に残そうという動きもあったようなのですが、最終的

にはスウェーデンの造船会社へその身を引き取られることになりました。

 

2006年、スカンジナビア号は多くの住民に惜しまれながら内浦を去りました。

しかし、スウェーデンに辿り着くこともなかったのです。


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そう、沈没です。

ここでまた、ミステリファンの悪癖が顔を出します。

 

なぜ、スカンジナビア号は沈没したのか?

 

ただの事故だった可能性は大いにあります。

実際、長期間渡航していなかったために強度面での不具合があったという説が有力です。

 

でも、もし、この沈没が意図的なものだったとしたら?

そんな風に考えてしまうのです。そしてその想像も、まったくの無根拠ではないというのが面白いところなのです。

 

長井崎中学校近くにある富士見トンネルを抜けた先に「海のステージ」というカフェがあります。

ここにはスカンジナビア号に関する資料がたくさん展示されています。

 

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(これまで載せたスカンジナビア号にまつわる写真はすべて海のステージさんで撮影させていただいたものです)

 

当然といえば当然かもしれませんが、従業員の方々もスカンジナビア号について詳し

く、業務の合間を縫って色々とお話を聞かせてくださいました。

 

その中で沈没の背景の話になったのですが、ここで僕は非常に面白いお話を聞きました。

実は、スカンジナビア号の沈没によって金銭的に得をした組織があるというのです。

 

その組織は現存しているので詳細を語ることは自粛しますが、もしかしたら彼らが作為

的にスカンジナビア号を沈めたのかもしれない…。

思わず、そんな想像を膨らませてしまいました。

 

他にも可能性は考えられます。

もしかしたら、スカンジナビア号の内部には何者かにとって都合の悪いもの(例えば、

床に染み込んでしまった何かなど)が残っていて、それを隠滅するために船ごと海の底

へ沈めてしまったのかもしれない…。などなど。

 

これが、ふたつめのミステリーでした。

 

 

いかがだったでしょうか。

いずれも現地の方々に話を聞いて、僕が強引な解釈をしただけなのですが、少しでも僕

が感じた浪漫が伝われば幸いです。

 

繰り返しですが、事実はどうあれ、想像する余地があるということに魅力を感じたとい

う話でした。

関係者の皆様に怒られかねない取り上げ方だったかもしれませんが、このような関心の

持ち方もあるのだとご理解いただけると幸いです。 

 

以上、似非ミステリーハンターの戯言でした。

ここまでご覧くださりありがとうございました。

 

いやあ、タイトル落ちでしたね。

約一年。

※ただの呟きです。お役立ち情報はありません。

 

――僕が同人活動をはじめたきっかけが『μ's FINAL LOVELIVE』であることは間違いないのですが、具体的にいつ頃だったかなあ、と思い、創作フォルダを古い順にソートしてみました。

 

f:id:Takuetsu_Ayabe:20170529213546j:plain

 

現時点から遡るとちょうど一年前くらいですね。

ファイルの乱雑さから、当時の不慣れさが感じられます。ははっ(失笑)

 

一年。長いような短いような。

 

結局、ミステリという括りだと二作しか書き上げていないんですよ。

長編をひとつと、短編をひとつ。

ミステリ以外も含めても、短編がプラス二作。

 

先日の僕ラブ16に出てみても思いましたが、圧倒的に小説を書き上げる経験値が足りません。

書きたいことはたくさんあるのに体がついていかない感じです。

ぜえぜえ言いながら書くことで、コンスタントに書き続けられる体力がついていくんでしょうか。今のところはそう考えて、地道にやっていこうと思っています。

 

僕ラブ16といえば、予想より少し多めの方々に手にとっていただけました。

委託のことも考慮するとほぼ理想的な頒布数だったので、ほっと一息。

 

お手にとってくださった皆さん、ありがとうございました。

ボタン押すだけの簡易感想フォームをご用意しているので、ぜひ感想をよろしくお願いします。みなさんの感想が命の源です。

docs.google.com

 

ついでなので、これからの執筆について少し。

いまメインで取り組んでいるのは、黒澤ダイヤを主人公に据えた長編SFミステリです。

SFといってもロボットやクローンが出るほうではなく、少し不思議なほうです。

今回はキャラクターをどれだけ掘り下げられるかという挑戦なので、推理要素はほとんどありません。

黒澤ダイヤの本質をどれだけ描けるか、という点に注力しています。

サンシャイン2期がはじまる前には完成させたいです。

 

 

 

しかし、その長編が行き詰まってしまいました。南無。

そんな背景があり、気分転換にと思って短編ミステリに手を出してみました。

www.pixiv.net

それまでは絶対短編なんて書けないと思ってたんですけど、お酒の力で強引に書き上げたところ、一応かたちにはなったので、案ずるより産むが易しとはこのことかといった心地です。

今後もタイミングを見つけて短編に挑戦しようと思います。

(こっちに集中しすぎて長編をおろそかにしないように気をつけよう…)

 

最後ですが、ありがたいことに、僕ラブ16にて合同誌のお誘いをいただきました。

詳細は未決なので情報は留めておきますが、折をみて発信しようと思います。

かたちになった際はご贔屓にお願いします。

 

今回はこんなところで。

次回はサンシャイン2期のストーリー予想でもやってみようかなと妄想中です。

 

それでは。